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嘘の向こう側  作者: 亀


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第三十九章 名前の横

透は、女から届いたメッセージを何度も読み返した。


中には、名前が一つだけ書かれていました。

分かりません。

でも、その名前の横に、

N―07

と書かれていました。


名前。


そして、N―07。


それだけなら、これまでにも何度も見てきた組み合わせだった。


だが、今回は違った。


その名前が、誰のものなのか分からない。


弟の名前ではない。


女も知らない。


それなのに、弟はその名前を靴箱の奥に隠していた。


透は返信した。


「写真を撮れますか」


少しして、画像が送られてきた。


古い紙だった。


何度も折りたたまれた跡がある。


中央に、手書きの名前。


その右側に、


N―07


それ以外には、何もない。


住所もない。


会社名もない。


日付もない。


透は画像を拡大した。


名前の文字を何度も確認する。


知らない名前だった。


少なくとも、透には。


「その人を知っていますか」


女から返事が来た。


「知りません」


「家族にも?」


「はい」


「弟さんの同僚にも?」


「まだ聞いていません」


透は少し考えた。


「元同僚に確認してみてください」


「私から?」


「はい」


「あなたは?」


「僕も別のことを調べます」


女はすぐには返事をしなかった。


やがて、


「分かりました」


とだけ届いた。


透は画像を保存した。


その名前を紙に書き写した。


そして、その横に小さく、


N―07


と書いた。


さらに、その下に、


本人?


と書いた。


少し考えてから、線を引いて消した。


まだ、本人だと決める理由はない。


名前がある。


番号がある。


それだけだ。


翌日、透は旧会社の資料を調べることにした。


古い従業員名簿。


退職者名簿。


外部作業員の記録。


管理室の利用記録。


しかし、その名前はどこにも出てこなかった。


少なくとも、透が見られる範囲には。


一つだけ似た名前があった。


漢字が一文字違う。


読み方も分からない。


同じ人なのか。


別人なのか。


判断できない。


透は資料を閉じた。


その時、以前話した年配の男が部屋に入ってきた。


「まだ調べているんですか」


「はい」


「何か見つかりましたか」


透は少し迷った。


「この名前を知っていますか」


紙を差し出した。


男は名前を見るなり、表情を変えた。


ほんの一瞬だった。


だが、透には分かった。


「知っていますか」


「……昔、見たことがあります」


「どこで?」


男は紙から目を離した。


「管理室です」


透は何も言わなかった。


「その人は、社員ですか」


「違います」


「外部の人?」


「それも違うと思います」


「では?」


男はしばらく考えた。


「名前だけを預かっていた人です」


「名前だけ?」


「はい」


「何のために?」


「それは分かりません」


透は少し待った。


「N―07と一緒に使われていましたか」


男は答えなかった。


その沈黙だけで、透には十分だった。


「その人は、どんな人ですか」


「私は本人を見たことがありません」


透は眉を寄せた。


「名前を見ただけ?」


「そうです」


「では、誰がその名前を使っていたんですか」


男は首を横に振った。


「分かりません」


また「分からない」だった。


しかし今回は、それで終わらなかった。


男は続けた。


「ただ、一度だけ聞いたことがあります」


「何を?」


「その名前は、人の名前ではないかもしれない、と」


透は黙った。


「では、何ですか」


「それも聞いていません」


男は少し苦笑した。


「昔の管理室では、名前と番号を同じように扱うことがありましたから」


「名前と番号を?」


「人を直接呼ばないためです」


透は聞き返した。


「なぜ?」


「その人間が誰なのか、知らなくても処理できるようにするためです」


透は、紙を見た。


そこにあるのは一つの名前。


しかし、それが本当に人を指しているのかは分からない。


名前なのか。


識別用の言葉なのか。


誰かが別の人間を指すためにつけたものなのか。


それすら分からない。


「では、この名前を見ても、その人が実在したとは限らない?」


「そういうことです」


男は答えた。


「でも、実在しなかったとも言えません」


透は頷いた。


それが、今のところ一番正確な答えだった。


その日の夜、女から電話が来た。


「元同僚に聞きました」


「何と言っていました?」


「その名前を知っていました」


透は黙った。


「弟さんから聞いたことがあるそうです」


「本人を知っている?」


「それは分からないそうです」


「何と言っていましたか」


女は少し間を置いた。


「『その名前を、人だと思わない方がいい』と言っていました」


透は目を閉じた。


「元同僚は、理由を言いましたか」


「はい」


「何ですか」


「その名前は、何度も人が変わっていたからだそうです」


透は言葉を失った。


「人が変わる?」


「同じ名前なのに、違う人が使っていた」


「それは、名前を共有していたということ?」


「分かりません」


女の声も少し揺れていた。


「でも、弟はその名前を調べていた」


透は聞いた。


「いつから?」


「分かりません」


「弟は何と言っていた?」


「『この名前を使う人間がいる』と言っていたそうです」


透は紙を見た。


名前。


N―07。


そして、靴箱の奥。


それだけでは、まだ何も証明できない。


しかし、これまで見てきたものと一つだけ違う。


今までは、


N―07が人を記録していた。


今度は、


一つの名前が複数の人間を指している可能性が出てきた。


もしそうなら、


「所在確認:不要」


という記録に残っていた「本人」も、


必ずしも一人の人間とは限らない。


透はその考えを口にしなかった。


女にも伝えなかった。


まだ早い。


まだ何も確かめていない。


電話を切ろうとした時、女が言った。


「もう一つあります」


「何ですか」


「弟の古いノートを見つけました」


「何が書いてありますか」


「ほとんど空白です」


「その中に?」


「最後のページだけ、文字があります」


透は待った。


女が読み上げた。


「『名前が同じなら、人も同じだと思うな。』」


透は黙った。


「その下に、もう一行あります」


「何と?」


女は少し間を置いた。


「『名前が違っても、人が違うとは限らない。』」


電話が切れた。


透は机の上に置いた紙を見た。


名前。


番号。


記録。


所在。


それぞれが人間を表しているように見える。


けれど、表しているものが同じとは限らない。


透はペンを取り、


名前 ≠ 人


と書いた。


少し考えた。


その横に、


番号 ≠ 場所


と書いた。


そして最後に、


記録 ≠ 現実


と書いた。


三つの線を眺めてから、透はペンを置いた。


それが真実なのかどうかは、まだ分からない。


ただ、


今まで信じていた対応関係が、


少しずつ崩れている。


そのことだけは、確かだった。

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