第三十八章 見た人間
白石と別れたあと、透はすぐには帰らなかった。
駅へ向かう道を歩きながら、何度も立ち止まった。
弟が誰かを探していた。
白石はそう言った。
ただし、白石自身が弟から直接聞いたわけではない。
昔の管理室にいた人間から聞いた。
それだけだった。
透はスマートフォンを取り出した。
女に電話をかける。
「今、少し話せますか」
「はい」
「弟さんが、南区へ行く前に誰かを探していたという話を聞きました」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
「誰を?」
「分かりません」
「白石さんからですか」
「はい」
「白石さんは、そう言ったんですか」
「昔の管理室にいた人から聞いたそうです」
女はしばらく黙っていた。
「弟からは、そんな話は聞いていません」
「何か、似たようなことは?」
「……あります」
「何ですか」
「南区へ行く少し前、弟が一度だけ言いました」
「何と?」
「『あの人がまだいるなら、確認したい』って」
透は足を止めた。
「あの人?」
「はい」
「誰のことか聞かなかった?」
「聞きました」
「弟は?」
「答えませんでした」
透はしばらく黙った。
「その言葉を聞いたのは、いつですか」
「南区へ行く四日くらい前です」
透は頭の中で日付を並べた。
所在確認が不要になった三日後。
その翌日。
そして南区へ行った。
時間の順番が、少しだけ変わった。
「その時、弟は何を持っていましたか」
「覚えていません」
「封筒は?」
「……」
女の声が止まった。
「どうしました?」
「ありました」
「封筒?」
「はい」
「見たんですか」
「弟が持っているのを見ただけです」
「どんな封筒でした?」
「茶色でした」
透は息を吐いた。
店主の話と一致した。
しかし、まだそれだけだった。
「封筒に何か書いてありましたか」
「数字があったと思います」
「N―07?」
「分かりません」
女はすぐに答えた。
「私は、その時そこまで見ていません」
透は頷いた。
電話の向こうでは、女も同じように考えているようだった。
けれど、どちらも「同じ封筒だった」とは言わなかった。
「その時、弟さんはどこへ行くと言っていましたか」
「言っていません」
「一人でしたか」
「はい」
「誰かと会うと言っていましたか」
「それも」
女は少し考えてから言った。
「ただ、帰ってきた時に一度だけ、変なことを言いました」
「何ですか」
「『見た人間と、見られた人間は違う』って」
透はその言葉を繰り返した。
「見た人間と、見られた人間は違う」
「はい」
「どういう意味か、聞かなかったんですか」
「聞きました」
「何と?」
「『まだ分からない』と言っていました」
電話が切れたあと、透はしばらく動かなかった。
それから、古い会社の近くにある小さな店へ向かった。
昨日の店主に、もう一度会うためだった。
店に入ると、店主は透を見るなり言った。
「また何か思い出しましたか」
「いえ。もう一つだけ聞きたいことがあります」
「どうぞ」
透は椅子に座った。
「管理室へ来ていた人は、誰かを見ていましたか」
店主は少し考えた。
「どういう意味ですか」
「いつも誰かを待っていた、と言っていましたよね」
「はい」
「その人は、待っている間に、他の人を見ていましたか」
「それは……」
店主はしばらく考えた。
「そういえば、ありました」
「何が?」
「管理室の前を通る人間を、時々見ていました」
「誰でも?」
「誰でもではありません」
「どんな人を?」
「古い社員です」
透は少し身を乗り出した。
「どうして分かるんですか」
「服装ですね」
「会社の制服?」
「はい」
「その人は、制服を着た人を見ていた?」
「正確には、胸の名札を見ていました」
透は黙った。
「何か書き留めていましたか」
「分かりません」
「でも、名札を見ていた?」
「ええ」
「その後、封筒に何かを書いていたことは?」
店主は目を細めた。
「……一度だけ」
「何を書いていましたか」
「名前だったと思います」
透は聞いた。
「名前?」
「はい」
「誰の?」
「そこまでは見えませんでした」
「では、なぜ名前だと思ったんですか」
「漢字が並んでいたからです」
透は頷いた。
「その封筒は、その後どうなりましたか」
「管理室へ持っていきました」
「その人が?」
「はい」
「一人で?」
「いつも一人でした」
透は少し考えた。
「その人が最後に来た日、何か変わったことはありませんでしたか」
店主はすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと言った。
「その日は、いつもと違いました」
「何が?」
「封筒を持っていませんでした」
透の表情が変わった。
「持っていなかった?」
「はい」
「では、手ぶらだった?」
「そうです」
「それでも管理室へ?」
「はい」
「何分くらいいましたか」
「いつもより長かったです」
「どのくらい?」
「一時間くらい」
透は黙った。
「その人が出てきた時、誰かと一緒でしたか」
店主は首を振った。
「一人でした」
「何か持っていましたか」
「……小さな紙を一枚」
「紙?」
「はい」
「封筒ではなく?」
「ええ」
「何が書いてありましたか」
店主は首を横に振った。
「そこまでは見えませんでした」
透は椅子から立ち上がった。
店主が言った。
「ただ、その時だけ、あの人は少し急いでいました」
「どちらへ?」
「駅とは反対の方向です」
透は礼を言って店を出た。
外へ出ると、風が強くなっていた。
駅とは反対の方向。
それだけでは、何も分からない。
しかし透は歩きながら考えていた。
毎週、封筒を持って来る。
人の名札を見る。
名前を書く。
管理室へ入る。
最後の日だけ封筒を持っていない。
一時間ほど中にいる。
出てきた時には、小さな紙を持っている。
そして、その日を境に二度と来ない。
弟の所在確認が不要になった日。
その日と一致している。
透は立ち止まった。
今まで彼は、その人物を「何かを運んでいた人間」だと思っていた。
けれど、違うのかもしれない。
その人物が運んでいたのは、情報そのものではなく、
誰かが誰かを見るための理由
だったのかもしれない。
もちろん、それもまだ推測だった。
透はスマートフォンを取り出した。
女からメッセージが届いていた。
弟の古い部屋をもう一度見ました。
その下に、もう一行。
封筒が入っていた場所を、初めて思い出しました。
透は画面を見つめた。
続けて、メッセージが届く。
ベッドの下ではありませんでした。
机の引き出しでもありません。
弟は、玄関の靴箱の奥に隠していました。
透は少し驚いた。
そして最後の一文を読んだ。
中には、名前が一つだけ書かれていました。
透は返信を打った。
「誰の名前ですか」
しばらくして、返事が来た。
分かりません。
でも、その名前の横に、
N―07
と書かれていました。




