第三十七章 決められた場所
透は、白石と会う場所を駅前の小さな公園にした。
人通りがある。
店ほど周囲の会話が聞こえず、古い建物ほど閉ざされてもいない。
今の透には、そのくらいの場所がちょうどよかった。
白石は約束の時間より少し早く来ていた。
ベンチに座り、缶コーヒーを持っている。
「ここにしたんだね」
「はい」
透は少し離れて座った。
白石は何も言わなかった。
しばらくして、透が口を開いた。
「昨日、N―07について聞きました」
「そうか」
「人の所在を記録するために使われていた」
「それだけではないよ」
「本人が決めた場所も記録していた」
白石は頷いた。
「そういう使い方もあった」
「では、弟さんの記録は?」
白石は缶を見た。
「どの記録?」
「所在確認が不要になった記録です」
白石は答えなかった。
透は続けた。
「本人申告による、と書いてありました」
「そうだね」
「本当に本人が申告したんですか」
白石は少し考えた。
「私には分からない」
「白石さんは、当時管理側にいたんですよね」
「いた」
「それでも?」
「管理側にいたからといって、すべての処理を見ていたわけじゃない」
透は黙った。
それは、以前なら納得できない答えだった。
しかし今は、それだけで嘘だとは思わなかった。
「N―07の処理をする人間は、誰でも使えたんですか」
「誰でもではない」
「資格が必要?」
「資格というより、権限だ」
「その権限を持っていた人間は?」
白石は公園の向こうを見た。
「当時は何人かいた」
「何人ですか」
「正確には覚えていない」
「名簿は?」
「残っているかもしれない」
「どこに?」
白石は答えなかった。
透は少し待った。
「言いたくないんですか」
「言えない、という方が近い」
「なぜ?」
「その名簿に名前があること自体が、その人間が何かをした証拠にはならないからだ」
透は白石を見た。
「どういう意味ですか」
「権限を持っていた人間と、実際に処理した人間は同じとは限らない」
「誰かの権限を借りることもあった?」
「そういうこともあった」
「では、記録だけでは誰がやったか分からない」
「そうだ」
透は小さく息を吐いた。
また一つ、線が消えた。
これまで透は、
記録があるなら、そこから人を探せると思っていた。
だが、実際には逆だった。
記録は人間を特定するためのものではなく、
人間を特定できないまま処理するためにも使われていた。
「白石さん」
「何だい」
「弟さんが南区へ行く三日前に、所在確認が不要になったことを知っていましたか」
白石はしばらく黙った。
「知っていた」
透は驚かなかった。
「その時、どう思いましたか」
「本人がそう望んだのだと思った」
「なぜ?」
「申告による、と記録されていたからだ」
「確認しなかったんですか」
「しなかった」
「なぜですか」
白石は透を見た。
「それが、その仕組みだったからだ」
透は言葉を失った。
「確認しないことが正しいと思った?」
「正しいとは考えていない」
「では?」
「確認しないことを選べる仕組みが必要な場合もある、と思っていた」
透は黙った。
白石は続けた。
「人によっては、自分がどこにいるかを会社に知られたくないことがある」
「それは分かります」
「だから、本人が希望した場合には、所在確認を止めることができた」
「でも、その本人が本当に希望したかは確認しない」
「そうだ」
「矛盾していませんか」
「矛盾している」
白石はあっさり答えた。
透は少し意外だった。
「それでも、その仕組みを使っていた?」
「使っていた」
「なぜ?」
白石はすぐには答えなかった。
「確認することが、いつも人を守るとは限らないからだ」
透は黙った。
それは弟が言っていたことと似ていた。
「自分がどこにいるかを、他人に決められるのは嫌だ」
その言葉が頭に浮かぶ。
「では、弟さんが自分から所在確認を不要にした可能性もある?」
「ある」
「誰かが代わりに申告した可能性も?」
「ある」
「その場合、記録上は区別できない?」
「できない」
透は公園の時計を見た。
夕方になっていた。
「一つだけ、分からないことがあります」
「何だい」
「弟さんは、南区へ行く前から、どうしてそこまで自分の所在を隠す必要があったんでしょうか」
白石は答えなかった。
透は横顔を見る。
「白石さんは、何か知っていますか」
「少しだけ」
「何ですか」
「弟さんは、南区へ行く前に、誰かを探していた」
「誰を?」
「分からない」
「人ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「本人から聞いたわけではない」
透は眉を寄せた。
「では、誰から?」
白石は缶コーヒーを置いた。
「昔の管理室にいた人間からだ」
「その人は、今どこにいますか」
「分からない」
まただった。
透は苦笑した。
「白石さんの『分からない』は、本当に分からないのか、言わないだけなのか、分からなくなります」
白石も少し笑った。
「それでいいと思う」
「いいんですか」
「私が何を知っているかを、君がすぐに判断する必要はない」
透は黙った。
それは、以前なら逃げに聞こえただろう。
今は違った。
自分が判断を保留することも、選択の一つだと思えるようになっていた。
「最後に一つだけ」
「何だい」
「その人は、封筒を持っていましたか」
白石の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「……なぜそれを聞く?」
「聞きたいからです」
白石はしばらく黙っていた。
「持っていたことはある」
「中身は?」
「見たことがない」
「誰に渡していた?」
「それは知らない」
透はそれ以上聞かなかった。
白石が立ち上がった。
「今日はここまでにしよう」
「はい」
「透」
「何ですか」
白石は少し迷ってから言った。
「弟さんが自分で所在確認を不要にしたとしても、それだけで南区へ行くことを選んだとは限らない」
透は黙って聞いていた。
「逆も同じだ」
白石は続けた。
「南区へ行ったからといって、その前の記録が誰かに決められたものだとも限らない」
そう言って、白石は歩き出した。
透は一人でベンチに残った。
弟が自分で決めた。
誰かに決められた。
その二つだけではない。
自分で選んだつもりで、他人の情報を前提にしていたのかもしれない。
誰かに勧められて、それを自分の選択だと思ったのかもしれない。
あるいは、本人自身が途中で考えを変えたのかもしれない。
記録には、その途中が残らない。
透はスマートフォンを取り出した。
女に送ろうとして、やめた。
白石から聞いた話を、全部そのまま渡す必要はない。
自分が聞いたものは、自分の中に置いておくこともできる。
透は画面を閉じた。
公園を出る。
歩きながら、ふと気づいた。
今まで自分は、
「弟がどこにいるのか」
を探していた。
けれど、本当に必要なのは、
「弟がどこにいると、誰が記録したのか」
だけでもない。
その記録を見た人間が、
何を信じて、その場所を現実だと思ったのか。
そこまで見なければ、
また別の誰かが作った「場所」を、自分の現実だと思ってしまう。
透は歩く速度を少し落とした。
まだ、答えはなかった。
ただ、探すものが少し変わった。




