第358章 名前のない噂
その噂が広がり始めたのは、朝だった。
最初に聞いたのは、透だった。
食料配給所の前で、二人の男が話していた。
「昨日の夜、倉庫に入ったのはあの男だってさ」
「誰が言った?」
「知らない。でも、何人もそう言ってる」
透は足を止めた。
「何を盗んだんですか」
二人は顔を見合わせた。
「それも知らない」
「じゃあ、何があったんですか」
「倉庫の在庫が合わなかったらしい」
それだけだった。
何がなくなったのか。
誰が確認したのか。
いつからなくなっていたのか。
誰も知らない。
それなのに、二人は同じ人物の名前を口にした。
「北側に住んでる、あの男だよ」
名前を聞いて、透は思い出した。
何度か見たことがある。
三十代くらいの男で、配給所の近くで働いている。
特に目立つ人間ではない。
透が二人に尋ねた。
「本人に聞いたんですか」
「いや」
「じゃあ、誰が言ったんですか」
「だから、知らないって」
男は少し苛立ったように答えた。
「でも、みんなそう言ってる」
その言葉だけが残った。
みんな。
透はその日の昼までに、同じ言葉を何度も聞いた。
「あの男がやったらしい」
「みんな知ってる」
「もう本人も分かってるだろ」
「昨日の夜、倉庫の近くにいたらしい」
しかし、一人ひとりに聞いてみると、話は少しずつ違っていた。
ある女は、倉庫の近くにいたと聞いたと言った。
別の男は、倉庫に入ったところを見たと聞いたと言った。
別の人間は、倉庫から何かを持ち出したと聞いたと言った。
さらに別の人間は、以前から怪しい行動があったと言った。
けれど、実際に本人を見た人間はいなかった。
透は午後になって、その男を見つけた。
男は一人で水を運んでいた。
「俺が盗んだって話だろ」
男のほうから言った。
透は黙っていた。
「もう知ってるよ」
「何を?」
「みんなが俺を犯人だと思ってること」
男は水の入った容器を地面に置いた。
「俺は昨日、倉庫の近くにはいた」
「なぜ?」
「水を取りに行った」
「倉庫には入った?」
「入ってない」
透は少し考えた。
「それを証明できる?」
男は笑った。
「できない」
その答えは、透が予想していたものだった。
「誰かが俺を見たっていうなら、その人を連れてこいよ」
男はそう言った。
「でも、たぶん誰も来ない」
「なぜ?」
「誰も俺を見てないからだ」
透は何も言わなかった。
男は続けた。
「でも、もう遅いんだよ」
「何が?」
「俺が盗んだって話のほうが、俺が盗んでないって話より早く広がった」
その日の夕方、配給所の前に人が集まっていた。
管理側の人間が、男の名前を出した。
「現在、確認を進めています」
それだけだった。
しかし、周囲では別の言葉が飛び交った。
「やっぱり怪しいんだ」
「管理側も疑ってる」
「じゃあ、ほぼ決まりだろ」
透はその会話を聞いていた。
管理側は「確認している」としか言っていない。
誰も「犯人だ」と言っていない。
それでも、人々の中ではすでに結論になっていた。
その夜、一枚の紙が貼られた。
そこには短い文章だけが書かれていた。
――昨日の夜、倉庫から物資を持ち出した者について、情報を知っている人は管理所まで申し出てください。
名前はなかった。
だが、その紙が貼られた翌朝には、男の名前が書かれた別の紙が、その下に貼られていた。
「犯人はこの人です」
誰が書いたのか分からなかった。
管理側が剥がした。
しかし、昼にはまた同じ紙が貼られた。
今度は二枚だった。
その翌日には、三枚になった。
男は仕事を休んだ。
誰かに殴られたわけではない。
脅されたわけでもない。
ただ、周囲の視線が変わった。
一緒に働いていた人間が、少し離れて歩くようになった。
配給所では、以前なら普通に話していた人間が、男を見ると会話を止めた。
男は何度か説明しようとした。
しかし、説明すればするほど、
「必死だな」
と言われた。
否定すればするほど、
「やっぱり何か隠している」
と言われた。
透はその様子を見ていた。
そして、あることに気づいた。
噂には、もう最初の情報が必要なくなっていた。
最初は、
「倉庫の在庫が合わない」
だった。
次に、
「あの男が倉庫の近くにいた」
になった。
その後、
「あの男が倉庫に入った」
になり、
「物資を持ち出した」
になった。
最後には、
「以前から盗みをしていた」
になっていた。
一つずつ増えた情報には、出所がなかった。
けれど、誰かから誰かへ渡るたびに、少しずつ具体的になっていた。
透は管理所に入った。
「一つ聞きたいことがあります」
担当者が顔を上げた。
「何ですか」
「在庫が合わなかったというのは、本当ですか」
「はい」
「どれだけ?」
担当者は記録を確認した。
「小さな差です」
「原因は分かっていますか」
「まだです」
「では、あの男が盗んだという証拠は?」
担当者は黙った。
「ありません」
「目撃者は?」
「確認できていません」
透は少しだけ息を吐いた。
「では、なぜ彼の名前が広がっているんですか」
担当者は答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
「私たちも知りません」
その言葉を聞いた瞬間、透は妙な感覚を覚えた。
誰も嘘をついていない。
少なくとも、今ここにいる人間は。
それでも、存在しないはずの事実が、すでに多くの人間の中では存在している。
透は外に出た。
夕方の通りでは、また誰かが言っていた。
「あの男が盗んだらしい」
透は振り返らなかった。
ただ、その言葉が次にどこへ向かうのかを見ようと思った。
まだ、誰も知らない。
この噂が、男一人の生活だけを壊して終わるのか。
それとも。
もっと多くの人間の判断を変えるのか。
その違いを決めるのは、真実ではなかった。
次に誰が、その話を信じるかだった。




