第357章 古い名前で来た人
朝、海は棚の前で立ち止まった。
昨日の封筒の下に置かれていた紙には、名前が一つだけ書かれている。
それは、今ではほとんど使われていない古い名前だった。
湊が紙を見た。
「この名前、前にも出てきましたね」
「はい」
「手紙の宛先と同じですか?」
海は記録を確認した。
「違います」
「では、誰の名前ですか?」
「まだ分かりません」
紙には名前以外、何も書かれていなかった。
海はそれを新しい記録として残した。
――古い名前が記載された紙が、封筒の下に置かれていた。
――記載した人物は不明。
午前中、年配の男性がやって来た。
「昨日、名前を書いた紙を置いたのは私です」
海は顔を上げた。
「この名前を知っているんですか?」
「知っています」
「本人ですか?」
男性は首を横に振った。
「昔、その名前を使っていた人を知っています」
「今も生きているか分かりますか?」
「分かりません」
「現在の名前は?」
「知りません」
海は紙を見た。
「なぜ名前だけを残したんですか?」
男性は少し迷った。
「昔、その人から一度だけ手紙をもらったことがあります」
「その手紙は?」
「もうありません」
「内容は覚えていますか?」
「ほとんど」
男性は少し笑った。
「でも、名前だけは覚えていました」
海は記録を取った。
「その人を探したいですか?」
「いいえ」
「連絡したいですか?」
「それもありません」
「では、名前を残した理由は?」
男性はしばらく黙った。
「その人が、昔そこにいたことだけは忘れたくなかったんです」
海は頷いた。
「この名前を、誰かに伝えてほしいですか?」
「いいえ」
「記録だけ?」
「はい」
男性は帰っていった。
昼過ぎ、昨日手紙を受け取った男性が来た。
今日は封筒を持っていなかった。
「開けましたか?」
海が聞くと、男性は首を横に振った。
「まだです」
「分かりました」
「でも、昨日とは少し違います」
「どう違いますか?」
「開けない理由が、なくなってきました」
海は黙って聞いた。
「昨日までは、開ける必要がないと思っていました」
「今日は?」
「必要がないから開けない、というより……」
男性は少し考えた。
「いつ開けてもいいと思えるようになりました」
海は記録した。
――開封する時期について、急ぐ必要を感じなくなった。
男性は記録を見て言った。
「それでいいです」
帰り際、男性が棚の紙に気づいた。
「その名前……」
海は何も言わなかった。
男性は紙を見つめた。
「知っている名前です」
「誰の名前ですか?」
「昔の知り合いです」
海は確認した。
「現在の本人だと分かりますか?」
「分かりません」
「探しますか?」
男性はすぐに首を横に振った。
「いいえ」
「名前を残しますか?」
男性は少し考えた。
「……その名前を使っていた人がいた、ということだけ記録してください」
海は頷いた。
「分かりました」
男性が帰ったあと、湊が言った。
「同じ名前を知っている人が二人いる」
「はい」
「でも、どちらも探そうとはしない」
「そうですね」
「名前だけが残る」
海は新しい記録を作った。
――同じ名前を知る人物が複数いる。
――本人との現在の関係は確認されていない。
――名前の一致だけでは、同一人物と判断しない。
夕方、最初の年配の男性がもう一度来た。
「一つ訂正したいです」
「はい」
「さっき、『その人を忘れたくない』と言いましたけど」
「はい」
「正確には違います」
海はペンを置いた。
「どう違いますか?」
「忘れたくないというより……」
男性は少し考えた。
「忘れてしまっても、その人がいた記録だけは残っていてほしいんです」
海は前の記録を消さなかった。
その下に、新しい言葉を追加した。
――本人の現在の希望は、過去の言葉を訂正するものとして記録する。
男性はそれを見て頷いた。
「それでお願いします」
夜、海は棚を閉じた。
そこには、二つの古い名前が残っていた。
どちらも、現在の本人には結びついていない。
それでも誰かの記憶の中では、
確かに誰かがその名前で生きていた。
そしてその名前を知っている人たちは、
その人を探すことを選ばなかった。
名前を残すことと、
人を探すことは、
同じではなかった。




