第353章 開かなかった手紙
手紙を受け取った男性は、翌日も来なかった。
海は連絡をしなかった。
昨日、自分で受け取ると決めた。
そして、開くかどうかは何も言わなかった。
昼前、湊が棚を整理していると、奥から古い記録が一冊出てきた。
「海さん、これ」
「何ですか?」
「手紙の記録です」
表紙には十年以上前の日付があった。
中には、受け取った手紙についての簡単な記録が並んでいた。
ある人はその場で開いた。
ある人は家に持ち帰った。
ある人は受け取ったあと、差出人に返した。
そして、一人だけ、
――受け取ったが、開かなかった。
と書かれていた。
湊はその記録を見ながら言った。
「開かなかった理由は書いてないんですね」
「はい」
「聞かなかったんですか?」
「当時は必要なかったのかもしれません」
「でも、知りたくならないですか?」
海は記録を閉じた。
「知りたいことと、記録する必要があることは別です」
その午後、手紙を受け取った男性が来た。
海は顔を上げた。
「開きましたか?」
男性は首を横に振った。
「まだです」
「分かりました」
「変ですよね」
「何がですか?」
「受け取るために何日も迷ったのに、受け取ったら開けなくなりました」
「そういうこともあります」
男性は椅子に座った。
「封筒を持って帰ったんです」
「はい」
「机の上に置きました」
「はい」
「何度も開こうとしました」
海は黙って聞いた。
「でも、開けたら戻れない気がして」
「戻れない?」
「知らなかった状態には戻れない」
男性は封筒を見つめるように言った。
「中に何が書いてあるか知りたいんです」
「はい」
「でも、知った後の自分がどうするのか分からない」
「それで、開けなかった」
「はい」
湊が聞いた。
「差出人に返すつもりはありますか?」
男性は少し考えた。
「まだ分かりません」
「捨てる?」
「それも嫌です」
「保管する?」
「たぶん」
海は記録用の紙を出した。
「今の希望を残しますか?」
男性は頷いた。
「お願いします」
海が書く。
――手紙を受け取った。
――まだ開封していない。
――現在、開封するかどうか決めていない。
男性はその記録を読んだ。
「これでいいです」
その日の夕方、別の女性が来た。
以前、古い名前を記録してほしいと言い、その翌日に撤回した女性だった。
「また変わりました」
海は顔を上げた。
「名前を残したいですか?」
「いいえ」
「では?」
「名前を残したくない、という記録だけは残してください」
海は少し考えた。
「分かりました」
女性は言った。
「昨日は名前を消してほしいと思いました」
「はい」
「でも、消されたら、昨日そう思ったことまでなくなる気がして」
「それで、記録だけ残したい」
「はい」
海は昨日の記録を確認した。
――名前を記録しないことを希望する。
その下に、新しい記録を追加した。
――本人は、現在の希望と過去の希望の両方を残すことを希望する。
女性はそれを見て頷いた。
「これなら大丈夫です」
夜、男性から短い連絡が届いた。
――手紙はまだ開いていません。
海は返事を書いた。
――承知しました。
少しして、もう一度連絡が来た。
――もし、しばらく開かなかったら、誰かに開けてもらうことはできますか。
海はしばらく画面を見た。
そして返した。
――開封する人を決めるのは、ご本人です。
返事はすぐには来なかった。
やがて、一行だけ届いた。
――分かりました。
海は手紙の記録を閉じた。
開かなかったこと。
開きたいと思ったこと。
開くのが怖かったこと。
そのどれも、手紙の中身ではなかった。
それでも、それらはすべて、
手紙を受け取った人が今どこにいるのかを示す記録だった。




