第352章 代わりに答えた人
翌朝、海が記録室に入ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
昨日の紙とは違う。
文字も違っていた。
――本人は、もう受け取らないと思います。
名前はなかった。
湊が紙を見つけた。
「またですね」
「はい」
「昨日の人でしょうか」
「分かりません」
海は紙を裏返した。
何も書かれていない。
「誰かが、本人の代わりに答えていますね」
「でも、本人からは何も聞いていない」
「はい」
海は紙を別の場所に置いた。
「これも本人の記録には入れません」
昼前、手紙の受取人が来た。
海は昨日の紙について何も言わなかった。
男性は棚を見た。
「手紙はありますか?」
「あります」
「今日は受け取ります」
「分かりました」
海は封筒を机の上に置いた。
男性は手を伸ばした。
しかし、指が封筒に触れる直前で止まった。
「……少し待ってください」
海は手を引いた。
「はい」
男性は椅子に座った。
「昨日、誰かが僕の代わりに何か言っていませんでしたか?」
「そのことについて、本人に確認していないので答えられません」
「そうですか」
「ただ、匿名の紙が二枚あります」
「何と書いてありますか?」
海は一枚目を読み上げた。
「『まだ、受け取らない』」
男性は黙っていた。
「二枚目は?」
「『本人は、もう受け取らないと思います』」
男性は少し笑った。
「どちらも僕が書いたものではありません」
「はい」
「でも、どちらも僕が考えたことのある言葉です」
海は何も言わなかった。
男性は封筒を見た。
「だから、余計に困ります」
「どうしてですか?」
「自分が言っていないことなのに、自分の気持ちみたいに見えるからです」
湊が静かに聞いた。
「では、今日は受け取りますか?」
男性は封筒を見たまま答えた。
「受け取ります」
そして、少し考えてから、
「でも、ここでは開けません」
海は頷いた。
「分かりました」
男性は封筒を受け取った。
「ありがとうございます」
「保管する必要はありますか?」
「いいえ」
「では、これで終わりですね」
男性は立ち上がった。
「はい」
しかし、出口まで行ったところで振り返った。
「一つだけ」
「はい」
「誰かが僕の代わりに何か言っても、それを僕の返事にしないでください」
海は答えた。
「本人から確認できたことだけ、本人の返事として記録します」
男性は頷いた。
「それなら、安心します」
男性が帰ったあと、湊が言った。
「手紙を受け取ったのに、まだ開けないんですね」
「はい」
「なぜだと思いますか?」
「聞いていません」
「聞かないんですか?」
「今は必要ありません」
午後、別の女性がやって来た。
「昨日、名前を残したいと言った者です」
海は記録を確認した。
「はい」
「やっぱり、名前を消してください」
「分かりました」
「昨日は残したいと思ったんです。でも、今日になったら、残したくなくなりました」
「現在の希望を記録します」
「昨日の記録は消しますか?」
海は首を横に振った。
「昨日は昨日の意思として残します」
女性は少し考えた。
「それでいいです」
「今日からは、名前を記録しない」
「はい」
「ただし、以前の記録が存在したことは残ります」
女性は頷いた。
「人って、毎日同じことを思うわけじゃないんですね」
「そうですね」
女性は帰っていった。
夕方、海はその日の記録を整理した。
誰かが代わりに答えた。
本人はその答えを否定した。
受け取ることを迷った人が、最後には自分で受け取った。
名前を残したい人が、翌日には残したくなくなった。
どれも、前の言葉を消すことでしか成立しない話ではなかった。
海は最後に、新しい記録を作った。
――本人の現在の意思と、第三者による推測・代弁を分ける。
その下に、もう一行を書いた。
――昨日の意思を、今日の意思として扱わない。
記録を閉じたとき、
湊が窓の外を見ながら言った。
「昨日までの答えが、今日になって変わるのは、悪いことじゃないんですね」
海は少し考えた。
「変わったことを、変わったまま残せるなら」
湊は何も言わなかった。
机の上には、もう手紙はない。
けれど、手紙を受け取った人が、
いつ開くのかは、まだ誰にも分からなかった。




