第351章 誰が置いた紙
朝、海は棚の前に立っていた。
昨日置かれていた紙は、まだそこにある。
――まだ、受け取らない。
誰が書いたのかは分からない。
湊も、その紙を見ていた。
「やっぱり、あの人でしょうか」
「分かりません」
「手紙を受け取りたいと言っていた人」
「そうかもしれません」
「でも、本人が来ていない」
「はい」
湊は紙を裏返した。
何も書かれていない。
「名前もないですね」
「はい」
「だったら、誰の意思なのか分からない」
海は紙を封筒の横に戻した。
「だから、本人の記録には入れません」
「じゃあ、どうします?」
「匿名の記録として残します」
午前中、一人の男性が来た。
棚の前まで来ると、少し迷ってから言った。
「昨日、ここに紙がありませんでしたか?」
海は男性の顔を見た。
「どの紙ですか?」
「『まだ、受け取らない』と書いてある紙です」
「あなたが置いたんですか?」
男性は答えなかった。
「その紙について、何か知っていますか?」
「知っています」
「誰が置いたかは?」
男性は少し考えてから言った。
「私です」
湊が振り返った。
海は紙を手に取った。
「この手紙を受け取る人を知っていますか?」
「知りません」
「では、なぜこの紙を置いたんですか?」
男性は椅子に座った。
「昨日、あの人がここへ来たのを見ました」
「手紙を受け取りに来た人ですか?」
「たぶん」
「話しましたか?」
「いいえ」
「では、どうして本人だと思ったんですか?」
男性は少し黙った。
「手紙の話をしていたからです」
「誰と?」
「別の人とです」
「その人が、受取人本人だとは確認していない?」
「はい」
海は紙を机に置いた。
「それなら、この紙を本人の意思として記録することはできません」
「分かっています」
「では、なぜ置いたんですか?」
男性はしばらく黙っていた。
「その人が、受け取るのを迷っているように見えたからです」
「だから?」
「代わりに、まだ受け取らなくていいと伝えたかった」
湊が聞いた。
「でも、本人に直接言っていませんよね」
「言えませんでした」
「どうして?」
男性は答えなかった。
海はそれ以上聞かなかった。
男性は立ち上がった。
「紙は、そのまま置いておいてください」
「誰かに渡すためですか?」
「いいえ」
「では?」
「自分が勝手に判断したことを、本人の意思にしないためです」
海は少しだけ男性を見た。
「分かりました」
男性が帰ったあと、湊が言った。
「結局、あの紙は本人の言葉じゃなかったんですね」
「はい」
「でも、本人がそう思っている可能性はある」
「あります」
「本人が違うと思っている可能性もある」
「あります」
湊は紙を見た。
「記録って、難しいですね」
海は紙の下に新しい一行を書いた。
――第三者が置いた意思表示。本人の意思として扱わない。
その日の午後、手紙を受け取りたいと言っていた男性から連絡が来た。
「まだ手紙はありますか?」
「あります」
「誰かが何か置きませんでしたか?」
海は少し考えた。
「匿名の紙が一枚あります」
「見せてもらえますか?」
「内容だけなら伝えられます」
「お願いします」
海は読み上げた。
「『まだ、受け取らない』です」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
「……それ、私が書いたものじゃありません」
「分かりました」
「誰が書いたか、分かりますか?」
「今は記録上、第三者です」
「そうですか」
また沈黙があった。
「じゃあ、手紙は受け取ります」
海は確認した。
「今ですか?」
「……」
男性はしばらく考えた。
「いや」
そして、少し間を置いて言った。
「やっぱり、今日は受け取りません」
「分かりました」
「でも、明日になるかもしれません」
「その場合も、ご本人から連絡してください」
「はい」
電話が切れた。
海は記録を一つ追加した。
――第三者の意思表示を否定した。
――本人は受け取りたい意思を維持しているが、受取時期は未定。
湊はその記録を見た。
「昨日より、少しだけ分かった気がします」
「何がですか?」
「誰かが言ったことと、本人が言ったことは、分けておいたほうがいい」
海は頷いた。
棚の上には、まだ手紙がある。
その隣には、誰かが書いた紙がある。
二つは似た言葉を持っていても、
同じ人の意思ではなかった。




