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嘘の向こう側  作者: 亀


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第350章 まだ決めていない人

「まだ、受け取らない」


その紙を見つけた朝、海は何度も文字を確認した。


名前はなかった。


筆跡から誰が書いたのかを判断することもできなかった。


湊が紙を見て言った。


「昨日の人でしょうか」


「分かりません」


「手紙を受け取りたいと言っていた人?」


「可能性はあります」


「でも、本人かどうか分からない」


「はい」


海は紙を封筒とは別の場所に置いた。


「手紙の記録には入れません」


「どうしてですか?」


「この紙が、手紙の受取人の意思なのか確認できないからです」


湊は頷いた。


「じゃあ、何の記録ですか?」


「ここに置かれていた紙の記録です」


その日の昼、昨日の男性がやって来た。


海は何も聞かず、先に椅子を勧めた。


男性は座ると、すぐに言った。


「まだありますか?」


「あります」


「そうですか」


「受け取りに来ましたか?」


男性はしばらく黙った。


「……今日は、違います」


海は頷いた。


「分かりました」


「昨日、受け取りたいと言いましたけど」


「はい」


「帰ってから考えました」


「何をですか?」


「手紙を受け取ったら、きっと中身を読んでしまう」


「はい」


「読んだら、差出人が何を考えていたのか知りたくなる」


「そうかもしれません」


「知ったら、返事をするかどうか決めなければならなくなる」


海は黙って聞いていた。


男性は続けた。


「だから、まだ受け取らないことにしました」


海は机の上に紙を置いた。


「この紙について確認してもいいですか?」


男性が見た。


「これは?」


「今朝、封筒の横に置かれていました」


男性は紙を見つめた。


「……僕ではありません」


「分かりました」


「でも」


男性は少し間を置いた。


「書いたことは、似ています」


海は何も言わなかった。


「まだ、受け取らない」


男性は小さく読み上げた。


「今の自分も、そんな感じです」


「では、この紙をあなたの記録に入れますか?」


「いいえ」


「分かりました」


「僕が書いたものではないので」


「はい」


男性は立ち上がった。


「手紙は、そのまま置いておいてください」


「どれくらいですか?」


「分かりません」


「分かりました」


男性が帰ったあと、湊が言った。


「やっぱり、あの紙は本人だったんじゃないですか?」


「分かりません」


「でも、内容は同じです」


「内容が同じでも、書いた人が同じとは限りません」


湊は紙を見た。


「似た気持ちになる人がいる」


「そうですね」


午後になって、別の女性が来た。


「昨日、古い手紙について聞いた者です」


海は顔を上げた。


「はい」


女性は少し緊張した様子だった。


「やっぱり、名前を残したいです」


「以前は残さないと言っていましたね」


「はい」


「変更しますか?」


「お願いします」


海は前の記録を消さず、その下に新しい希望を書いた。


――本人の名前を記録として残すことを希望する。


女性はそれを確認した。


「でも、探さないでください」


「分かりました」


「名前を残しただけで、探してほしいという意味にはしないでください」


「はい」


女性は少し安心したように息を吐いた。


「自分でも、よく分からないんです」


「何がですか?」


「知りたいのか、知らないほうがいいのか」


海は記録を閉じた。


「今は、両方あるのかもしれません」


女性は少し笑った。


「そうかもしれません」


夕方、差出人から再び連絡が来た。


――受け取っていないなら、そのままで大丈夫です。


海は返事を書こうとした。


しかし、少し考えてから手を止めた。


差出人は手紙を渡していいと言った。


受取人は受け取りたいと言った。


その後、受取人はまだ受け取らないと言った。


だから今は、誰も急いでいない。


海は短く返した。


――分かりました。


夜になり、海は一日の記録を整理した。


「受け取りたい」と言った人がいた。


「まだ受け取らない」と言った人がいた。


「名前は残したいが、探してほしくない」と言った人もいた。


どれも同じ人間の中に同時に存在しても、おかしくなかった。


海は最後に一行だけ書いた。


――決めないことも、現在の意思として記録する。


その紙を閉じたとき、


棚の奥から、古い別の封筒が一つ落ちてきた。


宛先には、また別の名前が書かれていた。

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