第349章 来なかった人
手紙を棚に戻してから、三日が過ぎた。
受け取りに来ると言っていた男性は、まだ来なかった。
海は特に連絡をしなかった。
「いつ来るかは、決めていませんから」
湊はそう言った。
「そうですね」
四日目の朝、別の女性が来た。
「古い手紙について聞きたいんですけど」
海は顔を上げた。
「どの手紙ですか?」
女性は少し考えてから言った。
「十年以上前に、私が書いたものです」
「宛先は分かりますか?」
「分かります。でも、その人が今どこにいるかは知りません」
「手紙は残っていますか?」
「ありません」
「では、何を確認したいですか?」
女性はしばらく黙っていた。
「その人が、今も生きているかだけ知りたいんです」
海は以前にも似た相談を受けたことを思い出した。
「連絡を取りたいわけではありませんか?」
「今は、分かりません」
「探すことはできます」
女性は首を横に振った。
「それも、今はしたくありません」
「では、確認する方法はありません」
「そうですよね」
女性は少し笑った。
「自分で聞いておいて、変な話ですよね」
「いいえ」
「知りたいけど、探したくない」
「はい」
「探したら、次は連絡するかどうかを決めなければならなくなる気がして」
海は記録用の紙を出した。
「名前だけ残しますか?」
女性は考えた。
「それも、今はいいです」
「分かりました」
女性は帰っていった。
昼になっても、手紙を受け取りに来る男性は現れなかった。
午後になり、海は棚を整理した。
封筒は昨日と同じ場所にある。
差出人からは「渡していい」と言われている。
受取人も「受け取りたい」と言った。
それでも、来ない。
湊が封筒を見ながら言った。
「受け取りたいと言っても、すぐには来ないんですね」
「はい」
「怖くなったのかな」
「分かりません」
「忘れた可能性もありますね」
「それもあります」
湊は少し考えた。
「こちらから連絡したほうがいいんじゃないですか?」
海は首を横に振った。
「本人が自分から来る条件にしました」
「でも、来ないなら……」
「来ないことも、その人の選択かもしれません」
湊は黙った。
夕方、男性から短い連絡が届いた。
――まだ受け取りに行けません。
その後に、もう一行あった。
――でも、手紙をなくさないでください。
海はその文章を記録した。
そして、返事をした。
――保管しておきます。
それだけだった。
翌日、差出人からも連絡が来た。
――まだ渡っていませんか。
海は答えた。
――まだです。
しばらくして返事が来た。
――分かりました。
それ以上は何も書かれていなかった。
湊が言った。
「差出人は、もっと早く渡してほしいとは思わないんですか?」
「聞いていません」
「聞かないんですか?」
「今は必要ないと思います」
「どうして?」
海は少し考えた。
「手紙を渡すことより、二人が今どうするかのほうが先だからです」
その夜、海は二つの記録を並べた。
一つは、
――渡してよい。
もう一つは、
――受け取りたい。
その間には、まだ何もない。
それでも、海は空白を埋めなかった。
手紙は棚に残された。
誰かが取りに来るまで。
あるいは、誰かがもう必要ないと言うまで。
翌朝、海が棚を開けると、
封筒の横に小さな紙が置かれていた。
誰が置いたのかは、分からなかった。
そこには一行だけ書かれていた。
――まだ、受け取らない。
海はその紙を手に取った。
そして、手紙とは別の記録として残した。




