第三十五章 電話の三分十七秒
透は、しばらくスマートフォンの画面を見ていた。
三分十七秒。
その数字だけでは、何も分からない。
電話をした人間も。
話した内容も。
電話が終わった後に何が起きたのかも。
ただ、十一時四十分に会社を出た後だった。
透は女に返信した。
「その電話について、他に何か残っていませんか」
しばらくして返事が来た。
「発信か着信かは分かりません」
「記録が違うんですか?」
「そうではありません。古い端末なので、方向の情報が残っていません」
「番号もない?」
「はい」
「時間だけ?」
「はい」
透はスマートフォンをポケットにしまった。
時間だけ残る。
人は消えている。
番号も消えている。
けれど、三分十七秒という数字だけは残っている。
それが妙に気になった。
翌日、透は古い会社の近くへ向かった。
目的は、第七管理室ではなかった。
その周辺に、当時の電話設備を知っている人間がいないか探すためだった。
以前、古い会社の建物で話をした男に聞くと、地下に古い通信設備が残っているらしい。
ただし、現在は使われていない。
「見ても何も分からないと思いますよ」
男はそう言った。
「それでも、見てみたいです」
「そうですか」
案内された地下室には、古い配線が並んでいた。
壁には番号の書かれた小さな札がいくつも残っている。
N―01。
N―03。
N―07。
透はその札の前で立ち止まった。
「これは電話番号ですか」
「昔は、そういう用途にも使っていました」
「今は?」
「今は使っていません」
「N―07は?」
男は首を振った。
「分かりません」
まただった。
分からない。
それでも番号だけが残っている。
透は配線を見た。
「当時、ここから電話をかけると、相手の番号は記録されましたか」
「通常なら」
「通常なら?」
「特殊な回線は、記録の方式が違いました」
「特殊な回線?」
「管理用です」
透は少し考えた。
「管理室とつながっていたんですか」
「可能性はあります」
「可能性?」
「私は当時、ここを担当していませんでしたから」
透は頷いた。
「もし、N―07を使った回線なら、相手の番号が残らないことはありますか」
男は古い設備を見ながら答えた。
「あります」
透の目が動いた。
「どんな場合ですか」
「相手を特定する必要がない場合です」
「必要がない?」
「管理上の連絡です。誰と話したかより、処理を行ったことだけが重要な場合があります」
透は、その言葉を聞いて黙った。
誰と話したかではなく。
話したという事実だけ。
それは、今まで見てきた記録と似ていた。
人間が消えて、処理だけが残る。
「三分十七秒という記録があるんですが」
「何の記録ですか」
「電話です」
男は少し考えた。
「そのくらいなら、短い確認連絡かもしれません」
「内容は?」
「分かりません」
「記録されない?」
「音声までは、普通は残しません」
透は地下室を見回した。
「当時、この設備を使っていた人間は、誰ですか」
男は答えなかった。
「名簿はありますか」
「古いものなら」
「見せてもらえますか」
「それは、私の判断ではできません」
透はそこで話を止めた。
無理に求める必要はない。
むしろ、誰かが「見せられない」と言った時、その理由を勝手に補わないことの方が大事だった。
地下室を出ると、透は女に連絡した。
「N―07の電話回線について、少し分かりました」
「何が分かりました?」
「特殊な管理回線だった可能性があります」
「電話番号が残らないことも?」
「はい」
女は少し黙った。
「それなら、弟に電話した相手が誰だったか、分からないままですね」
「そうですね」
「でも、誰かが電話したことは残っている」
「はい」
女は小さく息を吐いた。
「それって、弟が自分から電話した可能性もありますよね」
透は答えた。
「あります」
「誰かに呼ばれた可能性も?」
「あります」
「何かを確認しただけかもしれない」
「そうかもしれません」
「……何も分からないですね」
「はい」
透はそう答えた。
けれど、電話を切った後、別のことを考えた。
「分からない」ということは、情報がないこととは違う。
三分十七秒という記録がある。
N―07という回線があった可能性もある。
その時間に誰かと誰かの間で連絡があった。
ただ、その二人を特定できない。
透は歩きながら、昔の店主の言葉を思い出した。
毎週、管理室へ来ていた人間。
封筒を持っていた人間。
その人間が来なくなった日。
弟の所在確認が不要になった日。
そして、弟が会社を出た日。
すべてが同じ方向を向いているように見える。
だが、透はそこで立ち止まった。
「同じ方向を向いている」
そう思った時点で、すでに自分が線を引いている。
もしかしたら、本当は別々の線なのかもしれない。
その夜、白石から電話が来た。
「最近、古い会社の周辺を調べているそうだね」
透は少し黙った。
「誰から聞いたんですか」
「聞いただけだよ」
「誰から?」
白石は答えなかった。
以前なら、透はそこで黙っていただろう。
けれど、今は違った。
「僕が何を調べているか、知りたいんですか」
「知りたいというより、気になっただけだ」
「N―07についてです」
電話の向こうが静かになった。
「……そうか」
「N―07の回線について、何か知っていますか」
「少しだけ」
「教えてください」
白石はすぐには答えなかった。
「昔、あの番号を使って連絡をする人間はいた」
「誰ですか」
「それは知らない」
「どんな連絡ですか」
「確認だよ」
「何を確認するんですか」
「人が、どこにいるか」
透は息を止めた。
「それは、所在確認ですか」
「似ている」
「同じではない?」
「同じだと考える人もいる」
白石の言葉は、以前と変わらなかった。
知っていることと、言うこと。
その二つは一致しない。
「白石さん」
「何だい」
「弟さんが会社を出た日に、N―07から電話があった可能性があります」
長い沈黙。
「……そうかもしれないね」
「知っていたんですか」
「今、君から聞いた」
透は黙った。
本当かどうかは分からない。
しかし、今の自分には、それを決める材料がない。
だから決めなかった。
「一つだけ聞きます」
「何だい」
「N―07を使う人間は、相手のいる場所を決めるんですか」
白石は答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
「決める人もいる」
「決めない人も?」
「いる」
「では、何のためにあるんですか」
白石は小さく息を吐いた。
「人が自分で決めた場所を、記録するためにも使われていた」
透は何も言えなかった。
「そして」
白石が続けた。
「人が自分で決めたのかどうか分からない場所を、記録するためにも使われた」
電話が切れた後、透はしばらく動かなかった。
N―07は、人を置く番号ではない。
人の場所を決めるためだけの番号でもない。
誰かが決めた場所。
本人が決めた場所。
誰が決めたのか分からない場所。
それらを、同じ形式で記録するための番号だったのかもしれない。
透は机の上に置いていた古い鍵を見た。
N―07。
鍵は何も答えない。
ただ、そこにある。
そして透は初めて思った。
もしかすると、自分が探しているのは弟がどこにいるかではないのかもしれない。
弟が、
誰によって「そこにいる」と記録されたのか。
その方が、今までの記録をつなぐ鍵になるのかもしれなかった。




