第三十四章 空白の三時間
元同僚と会う約束をしたのは、夕方だった。
場所は、以前二人が一度だけ話した小さな喫茶店だった。
透が店に入ると、男はすでに来ていた。
窓際の席に座り、コーヒーにはほとんど手をつけていない。
「お待たせしました」
「いえ」
男は立ち上がった。
二人は軽く頭を下げ合った。
透は向かいに座った。
しばらく、どちらも本題を切り出さなかった。
店内には、食器の音と小さな音楽だけが流れていた。
やがて透が言った。
「弟さんが会社を出た日のことを聞きたいです」
男の表情が少し変わった。
「何か分かったんですか」
「まだ、何も分かっていません」
透はそう答えてから、続けた。
「その日の十一時四十分に、弟さんが会社を出ています」
男は黙っていた。
「十五時十二分に、N―07の処理が行われています」
「……N―07」
男がその言葉を繰り返した。
「知っていますか」
「知っています」
即答だった。
透は少し驚いた。
「どういうものですか」
「前にも言ったと思いますが、俺たちは全部を知らされていませんでした」
「はい」
「だから、正確な意味は知りません」
男はコーヒーを一口飲んだ。
「ただ、N―07が出た記録には、普通の荷物とは違うものが混ざることがありました」
「人の情報ですか」
「そうです」
「その日の処理について、知っていますか」
男はしばらく考えた。
「……俺は、その時間には会社にいませんでした」
透は顔を上げた。
「何時から?」
「昼前です」
「十一時四十分より前?」
「はい」
「どこへ?」
男は答えなかった。
透は急かさなかった。
やがて男が言った。
「弟さんと会っていました」
店の中の音が、急に遠くなったように感じた。
「十一時四十分より前に?」
「はい」
「どこで?」
「会社の近くです」
「何を話したんですか」
男は窓の外を見た。
「会社を辞めた後のことです」
「弟さんは、何と言っていましたか」
「南区へ行くと言っていました」
「そのことを、あなたは知っていた?」
「はい」
透は黙った。
白石も知っていた。
女も知らないところで、弟自身が誰かに話していた。
情報は一人から一人へ渡っていた。
ただ、それぞれが持っていた範囲が違っていた。
「その後は?」
「別れました」
「何時頃ですか」
「十一時半くらいだったと思います」
「その後、弟さんは一人でしたか」
「分かりません」
「あなたは?」
「俺は別の場所へ行きました」
「どこへ?」
男は少し迷った。
「古い会社の建物です」
透はすぐには反応しなかった。
「第七管理室のある建物ですか」
男は頷いた。
「はい」
「何をしに?」
「封筒を取りに行きました」
透は、店主の話を思い出した。
毎週、管理室へ来ていた人物。
いつも封筒を持っていた。
そして、弟の所在確認が不要になった日を境に来なくなった人物。
「その封筒は、誰から?」
「分かりません」
「どうして分からないんですか」
「置いてあったからです」
「どこに?」
「管理室の前です」
透は男の顔を見た。
「封筒の中身は?」
「見ていません」
「本当に?」
男は少しだけ笑った。
「見ていない、というより、見ても分からなかったと思います」
「どういう意味ですか」
「数字と名前がいくつか書かれていただけでした」
「N―07は?」
「ありました」
透は息を止めた。
「その封筒をどうしましたか」
「指定された場所へ持っていきました」
「どこですか」
「それは言えません」
透は聞き返さなかった。
男が自分で話すのを待った。
「でも、一つだけ言えます」
「何ですか」
「俺が運んだのは、人ではありません」
透は黙っていた。
「情報だけです」
男はそう言った。
「誰かの名前、住所、所属、所在。それを別の場所へ渡すだけでした」
「それで、人の場所が変わる?」
男は首を横に振った。
「俺には分かりません」
「でも、N―07を使った」
「はい」
「その日に?」
「その日です」
透は時計を見た。
「十五時十二分?」
男の視線が止まった。
「その時間まで覚えているんですか」
「記録に残っています」
「そうですか」
男はそれ以上驚かなかった。
「じゃあ、その時間にN―07を使ったのは、あなたですか」
長い沈黙があった。
「……違います」
「誰ですか」
「分かりません」
透はその答えを聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。
分からない。
それは答えにならないこともある。
けれど、少なくとも勝手に誰かを当てはめるよりは、まだ正確だった。
「では、あなたが持っていた封筒は?」
「渡しました」
「誰に?」
「分かりません」
「顔は?」
「覚えています」
透は男を見た。
「名前だけ知らない?」
「はい」
「その人は、管理室に来ていた人ですか」
男はすぐには答えなかった。
「……たぶん」
「たぶん?」
「俺が見た人と、店の人が見た人が同じかどうかは、分かりません」
透は頷いた。
まただった。
同じ時間。
同じ場所。
同じ封筒。
それでも、同じ人物だとは限らない。
「その人は、最後に何と言いましたか」
男は少し考えた。
「何も」
「何も?」
「封筒を受け取って、ただ帰りました」
「どこへ?」
「知りません」
透は椅子にもたれた。
三時間半。
十一時四十分から十五時十二分まで。
その間に弟がどこにいたのかは、まだ分からない。
ただ、その日の前後に複数の人間がN―07に関わっていた。
誰かが封筒を持った。
誰かが受け取った。
誰かが端末を操作した。
そして、弟の所在確認が不要になった。
「一つだけ聞いていいですか」
男が言った。
「はい」
「あなたは、弟さんを探しているんですよね」
「はい」
「見つけたら、どうするつもりですか」
透は答えられなかった。
男はそれ以上聞かなかった。
店の外は、もう暗くなっていた。
透は店を出る前に、男へ言った。
「今日聞いたことは、彼女にはまだ伝えません」
「どうしてですか」
「まだ、僕が見たものと彼女が見たものを混ぜたくないからです」
男は少しだけ頷いた。
「それがいいと思います」
外へ出ると、冷たい風が吹いていた。
透はスマートフォンを取り出した。
女からメッセージが一件届いていた。
弟が十一時四十分に会社を出た後、
一度だけ誰かから電話を受けていた記録がありました。
透は画面を見つめた。
続きがある。
相手の番号は残っていません。
でも、通話時間だけ残っています。
透はその数字を見た。
三分十七秒。
短い。
けれど、何を話したのかは分からない。
透は返信画面を開いた。
指を止めた。
そして、まだ何も送らずに画面を閉じた。
空白の三時間は、少しずつ形を持ちはじめていた。
しかし、その形が一つの出来事を示しているのか。
それとも、別々の出来事が偶然同じ日に重なっているだけなのか。
まだ、誰にも分からなかった。




