第三十三章 外出した時間
その夜、透は眠れなかった。
机の上に紙を一枚置いた。
左側に、弟の記録。
右側に、店主から聞いた話。
その間に、いくつかの線を引いた。
所在確認:不要。
本人申告による。
会社を午後に外出。
外出先は記録されていない。
同じ日に、管理室へ通っていた人物が来なくなった。
封筒。
七を含む二桁の数字。
どれも、単独で見れば意味がない。
透は紙を裏返した。
数字を並べても、答えは出なかった。
むしろ、並べたことで分からなくなった。
翌朝、透は女に連絡した。
「会社の外出記録について、もう一度確認できますか」
「何を確認したいんですか」
「時間です」
少しして、返信が来た。
「分かりました」
それから一時間ほどして、女から電話があった。
「午前十一時四十分です」
「それが、外出した時間?」
「はい」
「戻った記録は?」
「ありません」
「その日、会社には戻っていない?」
「少なくとも記録上は」
透は黙った。
「でも」
女が続けた。
「午後三時十二分に、一度だけ端末へのアクセスがあります」
「弟の端末ですか」
「違います」
「誰の?」
「分かりません」
「端末番号は?」
女は読み上げた。
透はすぐにメモした。
N―07。
その文字を見た瞬間、手が止まった。
「……その端末、今もありますか」
「古い端末なので、会社にはありません」
「最後に使われた場所は?」
「それも記録されていません」
透は椅子に座った。
午前十一時四十分。
弟が会社を出た。
午後三時十二分。
N―07の端末が使われた。
そして、その日のうちに弟の所在確認が不要になった。
三つの時間。
だが、それぞれの間に誰がいたのかは分からない。
「その端末を使った人について、何か残っていませんか」
「少し待ってください」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「……名前はありません」
「所属は?」
「空欄です」
「それ以外は?」
「確認者という欄があります」
透は聞いた。
「誰の名前ですか」
女は答えなかった。
「どうしました?」
「確認者も、空欄です」
透は目を閉じた。
空欄。
まただった。
名前がない。
所属がない。
確認者もいない。
それでも処理だけは残っている。
「その端末は、何をしたんですか」
「所在情報の更新です」
「弟の?」
「……はい」
透はしばらく言葉が出なかった。
「どんな更新ですか」
「所在確認を不要にした処理です」
電話が切れた後も、透は机の前から動かなかった。
誰かが操作した。
誰かが確認した。
誰かが判断した。
そう考えるのは簡単だった。
しかし、記録には誰もいない。
もしかすると、本当に誰も判断していないのかもしれない。
決められた手順に従って、誰かが端末を操作しただけ。
本人が申告したから処理した。
そう説明することもできる。
けれど、その「本人申告」が何を意味するのかは、まだ分からない。
昼過ぎ、透は女と会った。
彼女は一枚のコピーを持っていた。
「これを見てください」
紙には、古い処理記録が印刷されていた。
中央に、日付。
その下に、
所在確認:不要
そして、その横に、
本人申告による
さらに下には、
処理端末:N―07
と書かれていた。
透は紙を見つめた。
「これ、前に見たものと違います」
「どこが?」
「前の記録には、端末番号がありませんでした」
女も頷いた。
「私も気づきました」
「どうして、こちらにはあるんですか」
「元の記録を探したからです」
「元の記録?」
「会社の人が見せてくれました。通常の画面には表示されない履歴だそうです」
透は紙を裏返した。
何も書いていない。
「この処理をした人は?」
「分かりません」
「やっぱり」
女は紙を受け取った。
「でも、一つだけ分かりました」
「何ですか」
「N―07は、端末の名前ではないそうです」
透は顔を上げた。
「では、何ですか」
「処理区分だと言われました」
「処理区分?」
「はい。人の所在に関する特殊な処理をまとめるための番号だったらしいです」
透は、しばらく黙っていた。
第七管理室。
南区第七居住棟。
物流記録。
そしてN―07。
同じ番号が、場所を越えて残っている。
けれど、それぞれの意味は少しずつ違う。
「弟さんは、この処理区分を知っていたんでしょうか」
「分かりません」
女はそう答えてから、紙を折った。
「でも、弟が以前言ったことがあります」
「何を?」
「『番号を知っているだけでは、何も分からない』って」
透は彼女を見た。
「それは、いつですか」
「南区へ行く少し前です」
「誰から聞いたんですか」
「弟本人です」
女は視線を落とした。
「その時は、ただ仕事の話だと思っていました」
透は何も言わなかった。
人は後から過去の言葉に意味を与える。
あの時の言葉は、このことだった。
あの行動は、これを意味していた。
そうやって過去を現在に合わせることはできる。
だから透は、今すぐには結論を出さなかった。
「もう一つ、聞きたいことがあります」
女が顔を上げた。
「何ですか」
「弟さんが会社を出た十一時四十分から、N―07の処理がされた十五時十二分まで、何をしていたか分かりますか」
「分かりません」
「その時間を埋められる人は?」
女は少し考えた。
「……一人います」
「誰ですか」
「弟の元同僚です」
透は、元同僚の顔を思い出した。
あの男は、一度嘘をついた。
弟が南区へ行った後に連絡してきたことを、最初は言わなかった。
それでも、その嘘だけで彼を疑う理由にはならない。
透は立ち上がった。
「会いましょう」
女も立ち上がった。
「一緒に?」
透は少し考えた。
「今回は、別々に聞きませんか」
彼女は透を見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
二人は店を出た。
同じ場所へ向かうわけではなかった。
同じ答えを探すためでもない。
それぞれが、自分で聞いたものを持ち帰る。
その方が、少なくとも同じ情報を見ながら、同じ結論だけを作ることは避けられる。
透は歩きながら、もう一度だけ紙を見た。
十一時四十分。
十五時十二分。
その間に、何があったのか。
そして、その時間を誰も記録しなかったのか。
それとも、
記録する必要がないと判断されたのか。
まだ、分からなかった。




