第三十二章 同じ日
店を出てから、透はすぐには帰らなかった。
古い建物の前まで戻り、しばらく立っていた。
さっき聞いた話を、頭の中で何度も並べ直していた。
毎週、一度。
古い管理室へ来る。
違う人間を待つ。
いつも封筒を持っている。
そして、来なくなった日がある。
その日が、弟の記録から「所在確認:不要」が付けられた日と同じだった。
ただ、それだけだった。
それだけなのに、透は気になっていた。
同じ日だった。
それ以上のことは、まだ何も分からない。
透はスマートフォンを取り出した。
女に連絡しようとして、指を止めた。
今伝えても、彼女はきっと同じことを考える。
「弟と関係があるのではないか」と。
だが、それを裏付けるものはない。
透は画面を閉じた。
先に、もう一度店主に聞いてみることにした。
店に戻ると、店主は奥で帳簿を整理していた。
透に気づくと、顔を上げた。
「何か、まだありましたか」
「すみません。もう一つだけ、聞いてもいいでしょうか」
「ええ。分かることなら」
透は椅子に座った。
「その人が来ていた時間は、だいたいいつ頃でしたか」
店主は少し考えた。
「昼前ですね。毎週、ほとんど同じ時間でした」
「曜日も同じですか」
「そうです」
「何曜日ですか」
「木曜日です」
透は小さく頷いた。
「管理室へ行く前に、この店に寄ることはありましたか」
「毎回ではありません。でも、何度かありました」
「その時、誰かと一緒でしたか」
「一人でしたね」
店主はそこで少し考えた。
「……いや、一度だけ、別の人と一緒だったことがあります」
透の視線が上がった。
「どんな人ですか」
「若い男性でした」
「年齢は?」
「三十歳前後だったと思います」
「顔は覚えていますか」
「今見たら分からないでしょうね。何年も前ですから」
「その人が、弟さんと一緒だった可能性はありますか」
店主は透の顔を見た。
「弟さんというのは、あなたが探している人ですか」
透は一瞬迷った。
「……はい」
「それなら、分かりません」
店主はすぐには答えなかった。
「私が見たのは、ただ一度です。それに、あの人たちは人目を避けていたわけでもありませんでした」
「普通に話していたんですか」
「話していました。ただ、何を話していたかまでは聞いていません」
透は頷いた。
「封筒は?」
「持っていました」
「二人とも?」
「いえ。一人だけです」
「管理室へ持っていったんですか」
「そこまでは見ていません」
店主は帳簿を閉じた。
「でも、管理室から出てきた時には、封筒を持っていなかったことがあります」
透は黙った。
「渡した、ということですか」
「それも分かりません」
店主はそう言ってから、少しだけ笑った。
「私も、見たものを勝手につなげてしまうことがありますから」
その言葉に、透は何も返せなかった。
見たものをつなげる。
人は、それを自然にやってしまう。
同じ場所にいた。
同じものを持っていた。
同じ日に来ていた。
だから関係がある。
けれど、その間にあるものを、誰も見ていない。
「その人が最後に来た日は、覚えていますか」
「正確には覚えていません」
「でも、弟の記録と同じ日だった、と」
「ええ」
「どうして覚えているんですか」
店主は少し黙った。
「その日だけ、いつもの時間に来なかったからです」
「来なかった?」
「ええ。来るはずの日だったのに来なかった。それで、私は少し気になったんです」
透は聞き返した。
「それは、記録を見て分かったんですか」
「違います」
店主は首を振った。
「後になって、古い帳簿を整理していて気づいただけです」
「その日以降、一度も来ていない?」
「来ていません」
透はポケットの中のスマートフォンを握った。
「その人の名前は、分かりませんか」
「分かりません」
「会社の名前は?」
「それも」
「住所は?」
「知りません」
店主は少し申し訳なさそうに言った。
「ただ……」
「はい」
「封筒のことなら、少し覚えています」
透は顔を上げた。
「どんな封筒でしたか」
「普通の茶色い封筒です」
「何か書いてありましたか」
「毎回ではありません」
「毎回ではない?」
「たまに、数字が書いてありました」
「数字?」
「はい」
店主は指で机の上を軽く叩いた。
「確か、二桁でした」
透の胸の奥がわずかに動いた。
「何という数字か、覚えていますか」
店主は目を細めた。
「……七が入っていたような気がします」
透は何も言わなかった。
N―07。
頭の中に、その文字が浮かんだ。
しかし、それを口には出さなかった。
「七だけですか」
「いえ。二つの数字だったと思います」
「Nという文字は?」
「そこまでは覚えていません」
「そうですか」
透は椅子から立ち上がった。
店主が言った。
「あなたも、その封筒を探しているんですか」
透は少し考えた。
「まだ、分かりません」
「そうですか」
店主はそれ以上聞かなかった。
外へ出ると、夕方の道路を車が一台通り過ぎた。
透は歩きながら、女に電話をかけた。
今度は、すぐにつながった。
「どうしましたか」
「さっきの記録について、もう少し分かりました」
「私も少し調べました」
「何が分かりました?」
「弟の会社の古い勤怠記録です」
女の声が少し低くなった。
「その日、弟は出勤していました」
透は足を止めた。
「いつも通りですか」
「はい。ただ、午後から外出扱いになっています」
「どこへ?」
「記録にはありません」
透は黙った。
女も黙っていた。
しばらくして、彼女が言った。
「そして、その日の処理欄に、一つだけ変なものがありました」
「何ですか」
「所在確認についてです」
透は聞いた。
「不要になった?」
「はい」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
「でも、本人申告による、と書いてあるんですよね」
「そうです」
「会社を出た理由は?」
「記録されていません」
透は空を見た。
まだ明るかった。
それでも、何かが少しずつ暗くなっていくように感じた。
弟がその日に会社を出た。
同じ日に、所在確認が不要になった。
そして同じ日に、管理室へ毎週通っていた人間が来なくなった。
三つの記録が、同じ日を指している。
しかし、それぞれの記録には、互いにつながる説明がない。
「その人が弟だった、とは限らないですよね」
透が言った。
「はい」
女もすぐに答えた。
「むしろ、まだ何も分かっていません」
その返事に、透は少しだけ安心した。
分からないものを、分からないまま置いておける人がいる。
それだけで、話は少し違って見えた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何ですか」
「弟さんは、その日より前に、管理室について何か言っていませんでしたか」
電話の向こうで、女が黙った。
長い沈黙だった。
「……一度だけ」
「何を?」
「『あそこには、人の場所を決めている人がいる』って」
透は足を止めた。
「それ以上は?」
「聞きませんでした」
「どうしてですか」
「その時は、意味が分からなかったからです」
透は何も言わなかった。
電話の向こうでも、女は何も言わなかった。
二人とも、同じことを考えているのかもしれない。
けれど、どちらも言葉にはしなかった。
透は歩き出した。
今日分かったことは、増えた。
けれど、分からないことも同じだけ増えた。
そして彼は、ふと思った。
記録に残った「同じ日」は、何かが起きた日なのか。
それとも、
何かを記録しないと決めた日なのか。
まだ、それを判断する材料はなかった。




