第346章 返事を残す人
その翌日、封筒を預けていた男性がまた来た。
「昨日の話ですが」
海は顔を上げた。
「はい」
「やっぱり、一つだけ残しておきたいです」
「何をですか?」
男性は紙を一枚取り出した。
「返事です」
海は紙を受け取った。
そこには、短い文章が書かれていた。
――私は、今も返事をするつもりはありません。
その下に、少し間を空けて、
――ただ、あなたが生きていることは知っています。
と書かれていた。
海は紙を見た。
「これは誰に向けたものですか?」
「それは書かなくていいです」
「分かりました」
「名前も必要ありません」
「はい」
男性は紙を机の上に置いた。
「誰かに渡すためじゃありません」
「では?」
「自分がそう思っていることを残しておきたいだけです」
海は頷いた。
「記録します」
男性が帰ったあと、湊が紙を見た。
「返事をしないのに、返事を書くんですね」
「そうですね」
「相手には渡さない」
「はい」
「でも、本人にとっては返事なんだ」
海は記録を閉じた。
「そういうこともあります」
昼過ぎ、以前写真を預けていた女性が戻ってきた。
「昨日、探すのをやめたと言いましたけど」
「はい」
「一つだけ確認しました」
「何を?」
「写真の人が使っていた昔の名前です」
女性は一枚の紙を差し出した。
「この名前と、別の場所の記録が一致しました」
海が見る。
そこには古い名前と、五年前の日付があった。
「同じ人だと確認できたんですか?」
「いいえ」
「では、何が一致したんですか?」
「生年月日です」
海は紙を見直した。
「それなら、可能性はありますね」
「はい」
女性は少し迷った。
「でも、ここから先は調べません」
「分かりました」
「名前が変わっていても、本人が今の名前で暮らしているなら、その名前を尊重したいんです」
海はその言葉を記録した。
女性は立ち上がった。
「ただ、一つだけ聞いてもいいですか?」
「はい」
「もし、その人がこちらを探していたら、どうなりますか?」
「そのときは、相手から連絡が来るかもしれません」
「こちらから知らせることは?」
「今のところ、しません」
女性は頷いた。
「それでいいです」
夕方、少年が来た。
「父のことを伝える準備はできていますか?」
「はい」
海は記録を見せた。
――父が亡くなったことを伝える。
――父の名前を伝える。
――返事を求めない。
少年は確認した。
「これで大丈夫です」
「何か変えますか?」
「いいえ」
少年は紙を見ながら言った。
「でも、少しだけ安心しました」
「何がですか?」
「父が残したことを、僕が全部引き継がなくてもいいんだと思えて」
海は何も言わなかった。
少年は立ち上がった。
「伝えられたら、それで終わりにします」
「分かりました」
その夜、海は少年の伝言と男性の返事を別々にしまった。
どちらも相手に渡る可能性がある。
しかし、どちらも返事を求めていない。
翌朝、古い封筒が一つ届いた。
差出人の名前が書かれていた。
宛先には、現在使われていない古い名前が書かれている。
海は封筒を開けずに、湊へ渡した。
「どうしますか?」
湊は封筒を見た。
「宛先の人が、今もこの名前を使っているか分かりません」
「はい」
「差出人は分かっている」
「はい」
「なら、差出人に確認する?」
海は頷いた。
差出人へ連絡を取ると、しばらくして返事が来た。
――その手紙は、もう渡さなくていいです。
それだけだった。
湊が言った。
「開けなくてよかったですね」
海は封筒を見た。
「そうですね」
「中身は分からないままです」
「はい」
「それでもいい?」
海は封筒を閉じたまま保管した。
「差出人が、渡さないと決めたので」
夜になって、海は今日の記録を整理した。
返事を書いても渡さない人。
探しても、名前を追わない人。
伝えても、返事を求めない人。
そして、手紙を書いたあとで渡さないと決める人。
海は一つずつ記録を分けた。
同じ「伝える」という行為でも、その人がどこまで相手の人生に関わりたいのかは違っていた。
その違いを一つの答えにまとめる必要はなかった。




