第340章 ありがとうを伝えない人
翌朝、海は前日の記録を見直した。
――生きていることは伝えてよい。
――ありがとうと伝えてください。
二つの言葉が、別々に残っていた。
海は「ありがとう」のほうをしばらく見ていた。
相手は返事をするつもりがない。
生きていることだけを伝えてほしい。
そこに、別の言葉を加えていいのか。
海は少年に連絡をした。
「昨日のことですが」
「はい」
「あなたが言った『ありがとう』は、本人に伝えていいですか?」
少年は少し黙った。
「……分かりません」
「では、今は伝えません」
「はい」
「伝えたくなったら、また言ってください」
電話はそこで終わった。
昼前、湊がやって来た。
「昨日の人、返事を取り下げたんですか?」
「いいえ」
「でも、少年には全部伝えなかった」
「伝えていい情報だけ伝えました」
湊は記録を見た。
「同じ出来事なのに、伝える内容が違うんですね」
「本人によって必要な情報が違います」
「それって、嘘にはならないんですか?」
海は少し考えた。
「嘘をついているわけではありません」
「でも、全部は言っていない」
「はい」
湊は黙った。
その日の午後、少年から再び連絡が来た。
「やっぱり、ありがとうは伝えなくていいです」
「分かりました」
「それより、一つだけ聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
「その人は、父のことを覚えていましたか?」
海は答える前に、届いた手紙を確認した。
そこには、父について何も書かれていなかった。
「分かりません」
「そうですか」
少年は少し間を置いた。
「じゃあ、それでいいです」
「確認しない?」
「はい」
電話が切れた。
夕方、別の人がやって来た。
以前から古い名前について問い合わせていた女性だった。
「少し相談があります」
「どうぞ」
女性は一枚の写真を取り出した。
「この人を知っていますか?」
写真には、若い頃の男性が一人写っていた。
海は写真を見た。
名前は書かれていない。
「分かりません」
「十年前に、この人から手紙をもらったことがあります」
「どんな内容ですか?」
「会いたい、とだけ」
海は少し驚いた。
「会いましたか?」
「会いませんでした」
「どうして?」
「怖かったからです」
女性は写真をしまった。
「今になって、会えばよかったと思っています」
「探しますか?」
「それが分からないんです」
「何を知りたいですか?」
「生きているかどうか」
「生きていると分かったら?」
女性は答えなかった。
「会いたくなるかもしれません」
「会いたくなったら?」
「また怖くなるかもしれません」
海は頷いた。
女性は写真を机の上に置いた。
「この写真だけ、ここに預けてもいいですか?」
「誰にも見せない?」
「はい」
「名前も調べない?」
「今は」
海は写真を封筒に入れた。
女性は帰った。
その日の夜、海は三つの記録を見た。
生きていることだけを伝えた人。
「ありがとう」を伝えなかった人。
生きているかどうかを知りたいが、知った後のことは決めていない人。
どれも、答えを求めているようで、答えの先までは決めていなかった。
翌朝、海のところに一枚の紙が届いた。
差出人はなかった。
そこには、短く書かれていた。
――生きている。
それだけだった。
海は紙を見つめた。
誰のことなのか。
誰に向けた言葉なのか。
それは分からなかった。
海はその紙を、誰かの記録には入れなかった。
「誰か分からない」という事実だけを、別の封筒にしまった。




