第339章 返事をしない人
それから一週間、返事は来なかった。
一度だけ話したいという伝言も、そのままだった。
海は何度か封筒を確認したが、新しい紙は入っていなかった。
ある日の午後、湊が一枚の古い書類を持ってきた。
「これ、見つかりました」
「何ですか?」
「十年前の移動記録です」
海が受け取る。
そこには一人の名前と、移動先だけが書かれていた。
日付は、あの約束の日から三か月後だった。
「この人、ここを離れていたんですね」
「記録上はそうなっています」
「戻ってきた記録は?」
「ありません」
湊は別の紙を出した。
「ただ、五年前の記録に同じ名前があります」
海は紙を並べた。
住所は違った。
年齢の記載もない。
筆跡も違う。
「同じ人かもしれません」
「別の人かもしれません」
「確認できない?」
「できません」
湊は少し考えた。
「じゃあ、探している男性に教えますか?」
海は首を振った。
「まだ本人から返事がありません」
「でも、移動先が分かった」
「記録上の移動先です」
「それだけでも手掛かりになります」
「手掛かりを渡すことと、本人が望んでいるかどうかは別です」
湊は黙った。
その日の夕方、昨日の男性が来た。
「返事は?」
「まだありません」
「そうですか」
男性は少し俯いた。
「では、もういいです」
「伝言を取り下げますか?」
「はい」
海は記録を開いた。
「理由も残しますか?」
「いいえ」
「分かりました」
男性は帰ろうとした。
しかし、入口で立ち止まった。
「もし、向こうから返事が来たら?」
「その場合は知らせます」
「私が取り下げたことも?」
「本人がどう扱うか決めます」
男性は少し考えた。
「それなら、それでお願いします」
男性が帰った後、海は伝言を取り下げた。
名前だけの伝言も、
一度だけ話したいという伝言も、
どちらも残した。
ただし、現在の意思としては、
――連絡を希望しない。
と記録した。
翌日、返事が届いた。
封筒には差出人の名前があった。
海は開封した。
中には一枚の紙が入っていた。
――返事をするつもりはありません。
その下に、もう一行だけ書かれていた。
――でも、生きていることだけは伝えてください。
海はしばらく紙を見ていた。
湊が隣に来た。
「生きている?」
「はい」
「誰が?」
「分かりません」
「でも、返事を書いた人は生きている」
「そうですね」
「じゃあ、その人のこと?」
海は答えなかった。
名前も書かれていない。
住所もない。
ただ、自分が生きていることだけは伝えてほしい。
海は記録を二つに分けた。
一つは、
――返事を希望しない。
もう一つは、
――生存していることは伝えてよい。
湊が言った。
「それ、少し変じゃないですか?」
「そうかもしれません」
「返事はしたくない。でも、生きていることは知らせたい」
「両方とも本人の希望です」
湊はしばらく考えた。
「じゃあ、伝えるんですか?」
海は封筒を閉じた。
「誰に伝えるかが、まだ決まっていません」
その日の夕方、少年がやって来た。
海は少年に、
「お父さんが探していた人について、返事がありました」
とだけ伝えた。
少年は驚いた。
「生きているんですか?」
海は頷いた。
「そういう返事でした」
「会いたくない?」
「返事をするつもりはないそうです」
少年は黙った。
「でも、生きていることは伝えてほしい、と」
少年は長い間、何も言わなかった。
やがて、
「それだけでいいです」
と言った。
「何も聞かない?」
「はい」
「名前も?」
「はい」
少年は少し笑った。
「父が最後まで会えなかった人が、今も生きている。それだけ知れれば十分です」
海は記録を閉じた。
少年は帰る前に、一度だけ振り返った。
「その人に、ありがとうと伝えてください」
海は頷いた。
ただ、その言葉を伝えるかどうかは、まだ記録していなかった。




