第337章 伝えなかった名前
少年が帰ってから、四日が過ぎた。
その間、海は少年が書いた名前を誰にも伝えなかった。
問い合わせもなかった。
ただ、古い記録の中に同じ名前が何度か見つかった。
同じ名前。
違う日付。
違う住所。
違う筆跡。
海はそれらを一つにまとめなかった。
ある日の午後、湊が記録を整理していた。
「この名前、また出てきました」
「どの記録ですか?」
「十年前の名簿です」
海が確認すると、そこには少年が探している名前があった。
その横には、古い住所が書かれている。
「ここに住んでいたんでしょうか?」
「記録上はそうなっています」
「今も?」
「分かりません」
湊は少し考えた。
「調べれば分かるかもしれません」
海は首を横に振った。
「今は調べません」
「少年が探しているのに?」
「本人が今は探さないと決めています」
「でも、住所が分かれば伝えられます」
「だからこそ、今は伝えません」
湊は納得したように頷いた。
その日の夕方、少年から連絡があった。
「名前について、もう一度確認したいです」
「はい」
「やっぱり、少し調べたいと思います」
「分かりました」
「でも、住所まではいりません」
海は少し驚いた。
「名前だけ?」
「はい」
「理由は?」
少年はしばらく黙った。
「父が残した名前が、本当にその人の名前だったのかだけ知りたいんです」
「分かりました」
海は古い記録を確認した。
「同じ名前の人が複数います」
「そうですか」
「どの人かは、この記録だけでは分かりません」
「では、調べなくていいです」
「それでいいんですか?」
「はい」
少年は少し笑った。
「調べ始めると、父が言っていた人を探したくなりそうなので」
海はその言葉を記録しなかった。
少年が電話を切ったあと、湊が言った。
「今の話、記録しなくていいんですか?」
「本人が記録を希望していません」
「でも、大事なことじゃないですか?」
「大事かどうかと、残すかどうかは別です」
湊は黙った。
翌日、別の男性がやって来た。
「古い名前を探している人がいると聞きました」
海は顔を上げた。
「誰から聞きましたか?」
「知人です」
「その人の名前は?」
男性は答えなかった。
「何を知りたいんですか?」
「その人が、まだこの辺りにいるかどうか」
「分かりません」
「調べてもらえますか?」
「本人の同意が必要です」
男性はため息をついた。
「昔の知り合いなんです」
「それでもです」
「一度だけ話したい」
「その希望を伝えることはできます」
「名前を伝えても?」
「本人が受け取ることを希望するなら」
男性は少し考えた。
「では、名前だけ残してください」
海は紙を渡した。
男性は名前を書いた。
海はそれを受け取った。
「相手に伝えていいですか?」
「はい」
「会いたいということも?」
男性は少し迷った。
「それは書かないでください」
「名前だけ?」
「はい」
海は頷いた。
名前だけの伝言だった。
その日の夕方、海は二つの紙を並べた。
一つは、少年が探していた名前。
もう一つは、別の男性が伝えたい名前。
どちらも同じ人物を指している可能性があった。
しかし、まだ確認されていない。
海は二枚を別々の封筒に入れた。
同じ名前だからといって、同じ人の話にまとめることはしなかった。




