第336章 約束を知らない人
翌朝、海のところへ一人の少年が来た。
「昨日、ここに来た人のことを聞きたいんです」
「どの人ですか?」
少年は少し考えた。
「十年前に、誰かと約束した人です」
海は顔を上げた。
「どうして、その人を探しているんですか?」
「父から聞きました」
「何を?」
「昔、父が誰かと約束したことがあるって」
海は少し黙った。
「お父さん本人から聞いたんですか?」
「はい」
「どんな約束ですか?」
少年は首を振った。
「詳しくは知りません」
「では、なぜ探しているんですか?」
少年はしばらく考えた。
「父が亡くなる前に、『一度だけ会いたかった』と言っていたからです」
海は何も言わなかった。
「その人が誰なのか、知りたいんです」
「お父さんは名前を言わなかった?」
「言いました。でも、その名前が本当にその人の名前なのか分かりません」
「どうして?」
「父は最後のほう、昔のことをよく間違えていたので」
海は頷いた。
「その名前を教えてもらえますか?」
少年は紙に書いた。
海はそれを見た。
以前から何度か出てきた名前だった。
だが、海はそれについて何も言わなかった。
「この名前の人を探しているんですね」
「はい」
「見つけたら、何を伝えますか?」
少年は答えられなかった。
「父が会いたかった、と伝えたいです」
「その人が会いたいかどうかは?」
「分かりません」
「返事を求めますか?」
「……分かりません」
少年は紙を握った。
「父が約束したことだから」
海は静かに言った。
「お父さんの約束を、あなたが引き継ぐ必要はありません」
少年は顔を上げた。
「でも、父の最後の願いです」
「だからこそ、あなたがどうするかは別に考えてもいいと思います」
少年は黙った。
しばらくして言った。
「僕自身は、会ってみたいです」
「どうして?」
「父がどんな人と約束していたのか知りたい」
「それなら、それはあなた自身の理由ですね」
少年は頷いた。
「でも、相手が会いたくないと言ったら?」
「そのときは止めます」
「本当に?」
「あなたがそう決めるなら」
少年は少し考えた。
「じゃあ、名前だけ残してください」
「探さない?」
「今は」
「分かりました」
少年が帰ったあと、湊がやって来た。
「今の人、探すのをやめたんですか?」
「今は探さないそうです」
「父親の願いなのに?」
「本人がそう決めました」
湊は少し考えた。
「でも、いつか探すかもしれない」
「そうかもしれません」
午後になると、昨日の男性から連絡が入った。
「一つ訂正したい」
海は記録を開いた。
「昨日の『現在、面会を希望していない』という記録ですか?」
「はい」
「どうしますか?」
「『今は決めていない』にしてください」
「会いたくないわけではなく?」
「はい」
「会いたいわけでもない?」
「それも違います」
「分かりました」
海は記録を訂正した。
男性は電話の向こうで少し笑った。
「昨日は、会いたくないと思っていたんです」
「今日は?」
「考える時間が欲しくなりました」
「分かりました」
電話が切れた。
海は昨日の記録を消さなかった。
「面会を希望していない」
その横に、
「現在は決めていない」
と追加した。
夕方、少年が戻ってきた。
「やっぱり、一つだけお願いがあります」
「何でしょう?」
「もし、その人が自分からここへ来たら」
「はい」
「父の名前を伝えてください」
海は頷いた。
「あなたがそう希望していることも?」
少年は少し迷った。
「それは言わなくていいです」
「分かりました」
少年は帰った。
同じ日に、
一人は「会いたくない」から「まだ決めていない」に変わり、
もう一人は「探したい」から「今は探さない」に変わった。
海は二つの記録を別々にしまった。
どちらも、決定ではなかった。
その日の時点での意思だった。




