第335章 覚えていない約束
老人が帰ってから、二日後のことだった。
一人の女性が海のところへやって来た。
「昔の約束について確認したいんですが」
「どんな約束ですか?」
女性は古い紙を取り出した。
紙には、二人の名前と日付が書かれていた。
「十年前に、ここで会う約束をしていたんです」
「相手の人は?」
「来ませんでした」
「それから会っていない?」
「はい」
女性は紙を机の上に置いた。
「でも、最近になって、その人が『約束なんてしていない』と言っていると聞きました」
海は紙を見た。
「本人から聞いたんですか?」
「いいえ。共通の知人からです」
「では、本人には確認していない?」
「していません」
「どうしてですか?」
女性は少し迷った。
「聞くのが怖いんです」
「約束を覚えているかどうか?」
「はい」
海は紙を見た。
「あなたは覚えていますか?」
「覚えています」
「確かですか?」
女性は少し笑った。
「昨日までは、そう思っていました」
「今日は?」
「紙があるから、約束したこと自体は確かだと思います」
「でも?」
「相手が同じ約束を覚えているとは限らない」
海は頷いた。
「そうですね」
女性は紙を折った。
「約束って、二人で作るものですよね」
「一般的には」
「じゃあ、一人だけ覚えていても、約束だったんでしょうか」
海は答えなかった。
女性もすぐに答えを求めなかった。
しばらくして、女性は言った。
「私、ずっと相手が約束を破ったと思っていたんです」
「はい」
「でも、もし相手が約束したこと自体を覚えていないなら、私が怒っていた相手は、本当にその人だったのかなと思って」
「どういう意味ですか?」
「私の中では十年間、ずっと同じ出来事だったんです。でも、相手の中では違う出来事だったかもしれない」
海は紙を見た。
「本人に聞けば分かるかもしれません」
「はい」
「聞かないという選択もできます」
女性は少し考えた。
「今は、聞かないでおきます」
「理由を残しますか?」
「いいえ」
「分かりました」
女性は帰ろうとした。
入口で立ち止まり、振り返った。
「でも、この紙だけは残してください」
「どうしてですか?」
「私が覚えていたことまで、なかったことにしたくないので」
「分かりました」
女性が帰ったあと、海は紙を封筒に入れた。
その日の夕方、今度は一人の男性がやって来た。
「古い約束について聞きたい」
海は顔を上げた。
「どの約束ですか?」
男性は日付を告げた。
海は一瞬、先ほどの女性の紙を思い出した。
だが、それを口には出さなかった。
「その日に、誰かと約束しましたか?」
男性はしばらく考えた。
「……分かりません」
「約束したかもしれない?」
「はい」
「誰と?」
「それも分かりません」
海は黙っていた。
男性は苦笑した。
「変ですよね」
「そうでもありません」
「でも、十年前のことです」
「十年あれば、覚えていることも忘れることもあります」
男性は机の上を見た。
「もし、その日に誰かと会う約束をしていたとして」
「はい」
「相手が今でも覚えていたら、どうすればいいでしょう」
「それは、相手が決めることでもあります」
「自分が覚えていなくても?」
「はい」
男性はしばらく考えた。
「じゃあ、もし会うことになったら、その人の話を聞きます」
「はい」
「自分の記憶と違っていても?」
「その場で決めればいいと思います」
男性は頷いた。
「分かりました」
帰り際、男性が言った。
「ただ、今はまだ会いたくありません」
海は頷いた。
「それも記録しておきますか?」
男性は少し考えた。
「……はい」
海は一行だけ書いた。
――現在、本人は面会を希望していない。
名前は書かなかった。
約束の内容も書かなかった。
ただ、今の意思だけを残した。
そして封筒の中には、別の人の十年前の約束が残ったままだった。




