第334章 二つの記憶
二つの記録が別々に保管されてから、一週間が過ぎた。
その間、老人は来なかった。
男性も来なかった。
記録だけが残っていた。
ある朝、海が記録室に入ると、別の職員が一枚の紙を持って待っていた。
「これ、確認してもらえますか?」
「何でしょう?」
「昨日、物資の受け取りについて問い合わせがありました」
紙には、十年前の配給記録が書かれていた。
「この人は、受け取ったことになっています」
「はい」
「でも、本人は受け取っていないと言っています」
海は記録を確認した。
署名も残っていた。
「本人の署名ですか?」
「そう記録されています」
「本人は?」
「自分の字ではないと言っています」
海は少し考えた。
「当時の担当者は?」
「もういません」
「代わりに受け取った人は?」
「記録にはありません」
職員は困った顔をした。
「では、どちらを信じればいいでしょう?」
海は署名を見た。
「今の時点では、どちらとも決められません」
「記録があるのに?」
「記録があることと、その内容が正しいことは別です」
職員は黙った。
「では、どうしますか?」
「本人の申告を別の記録として残してください」
「元の記録は?」
「残します」
「また二つになる」
「はい」
職員は少し笑った。
「最近、記録がどんどん増えますね」
「そうですね」
その日の午後、物資を受け取っていないと言った男性本人が来た。
「記録を見ました」
「はい」
「署名も見ました」
「どう思いましたか?」
男性は首を傾げた。
「自分の字に似ています」
海は黙って聞いた。
「でも、書いた記憶はありません」
「十年前ですから、覚えていない可能性もあります」
「そうですね」
男性は署名を見つめた。
「もしかしたら、書いたのかもしれません」
「では、訂正を取り消しますか?」
男性はすぐに首を振った。
「それも分かりません」
「どうしますか?」
「両方残してください」
海は頷いた。
「分かりました」
「『受け取っていない』という私の言葉も?」
「はい」
「『受け取った可能性がある』という今の言葉も?」
「はい」
男性は苦笑した。
「自分でも面倒ですね」
「そうでもありません」
「どうして?」
「分からないことを、分からないまま残すこともできます」
男性は少し考えた。
「それなら、お願いします」
男性が帰ったあと、職員が海に尋ねた。
「こういう記録が増えると、後で何を信じればいいのか分からなくなりませんか?」
海は少し考えた。
「一つの記録だけで決めなければいいと思います」
「でも、急いで決める必要がある場合は?」
「そのときは、その時点で分かっていることを使って決めるしかありません」
「後から違っていたら?」
「訂正する」
「また記録が増える」
「はい」
職員は笑った。
「きれいにはならないですね」
海も少し笑った。
「たぶん」
夕方、昨日の老人が突然やって来た。
「男性から聞きました」
「はい」
「私の記憶について、まだ確認していないんですよね」
「本人が望んでいません」
老人は頷いた。
「私も、まだ会わなくていいと思っています」
「そうですか」
「でも、一つだけ分かりました」
「何がですか?」
老人は自分の古い記録を見た。
「私は、あの日のことをずっと覚えていると思っていました」
「はい」
「でも、本当は『覚えていると思っていた』だけなのかもしれません」
海は何も言わなかった。
老人は記録を閉じた。
「だから、今はどちらが正しいか決めなくていいです」
「分かりました」
老人は立ち上がった。
「いつか、話したくなったら来ます」
「はい」
老人が出ていったあと、海は二つの記録を並べた。
どちらにも、確かな部分と不確かな部分があった。
それでも二つとも、その人がそう考えた時点では本当だった。
海は記録を別々に戻した。
一つにまとめる理由は、まだなかった。




