第332章 直した記録
翌朝、海が記録室に入ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
昨日追加した欄に、赤い線が引かれている。
――本人が、現在の使用を希望するか。
その横に、小さく書かれていた。
「現在は使用しない」
海は紙を持って受付へ向かった。
「これを書いたのは誰ですか?」
係の青年が顔を上げた。
「昨日の青年です」
「名前を?」
「はい」
「理由は聞きましたか?」
「聞いていません」
海は頷いた。
その日の昼、青年本人が来た。
「記録を直しました」
「確認しました」
「昨日は名前を使ってくださいと言いましたけど、今朝になって考えが変わりました」
「分かりました」
「昨日の記録も変えたほうがいいですか?」
海は少し考えた。
「昨日のことまで変える必要はないと思います」
「でも、今は使わないんですよね」
「はい」
「じゃあ、記録が二つになります」
「そうですね」
青年は少し困った顔をした。
「人に見られたら、気が変わったことが分かります」
「それが嫌ですか?」
「少し」
「では、昨日の記録を誰が見られるか確認しましょう」
青年は頷いた。
「自分以外には見せたくありません」
「必要な場合を除いて?」
「はい」
「分かりました」
海は記録の閲覧範囲を変更した。
青年はそれを確認してから帰った。
その日の午後、食堂から連絡が入った。
「昨日、名前を使っていた人について聞きたいという人が来ています」
「どの人ですか?」
「名前は言いませんでした」
「何を聞きたいんですか?」
「『昨日、名前を呼ばれていた人は今日も来ていますか』と」
海は少し考えた。
「答えましたか?」
「いいえ」
「それで大丈夫です」
「でも、その人はかなり知っている様子でした」
「知っていることと、確認できることは別です」
「分かりました」
電話を切ってしばらくすると、今度は青年が来た。
「誰か、僕のことを聞きましたか?」
海は少し間を置いた。
「問い合わせがありました」
青年の顔が曇った。
「僕の名前は?」
「伝えていません」
「昨日、名前を使ったことは?」
「それも伝えていません」
青年は安心したように息を吐いた。
「ありがとうございます」
「誰だったか、知りたいですか?」
青年はしばらく考えた。
「……知りたくありません」
「分かりました」
「知らないほうがいい気がします」
海はそれ以上聞かなかった。
青年が帰ったあと、湊が言った。
「さっきの人、少し怖がっていましたね」
「そうですね」
「誰なのか知れば、安心できるかもしれないのに」
「逆かもしれません」
「どういうことですか?」
「相手が誰か分からないから、今の生活を続けられることもあります」
湊は黙った。
夕方、海のところへ一人の老人が来た。
「記録を直してほしい」
「どの記録ですか?」
老人は古い紙を出した。
そこには十年前の日付と、老人の名前が書かれていた。
「この日は、ここにいませんでした」
「記録が間違っている?」
「はい」
「どこにいたか分かりますか?」
「分かりません」
「では、どうして違うと分かるんですか?」
老人は答えた。
「その日に、私は別の場所にいたからです」
「証明できるものは?」
「ありません」
海は記録を見た。
「記録を削除することはできません」
「では?」
「訂正の申し出を残すことはできます」
老人は頷いた。
「それでいいです」
「理由も記録しますか?」
「はい」
老人は少し考えた。
「でも、『本当はどこにいたか分からない』とも書いてください」
海はその言葉をそのまま記録した。
老人は紙を確認した。
「これでいいです」
「はい」
老人が帰ったあと、湊が記録を見た。
「間違っているかもしれない記録を、消さずに残すんですね」
「元の記録が存在したことも事実だからです」
「でも、間違いかもしれない」
「だから訂正の記録も残します」
湊は頷いた。
その夜、海は一日の記録を閉じた。
正しい記録だけを残すことはできない。
間違いを消すことも、いつも正しいとは限らない。
だから、
何が書かれていたか。
誰が訂正を求めたか。
今は何を希望しているか。
それぞれを分けて残した。




