第331章 聞かれなかった理由
食堂で「呼ばない」という選択ができるようになってから、しばらく経った。
最初は珍しがっていた人たちも、今ではほとんど気にしなくなった。
その日、受付には一人の少年が立っていた。
札を渡されると、名前の欄を見た。
「これ、書かないと駄目ですか?」
「書かなくても大丈夫です」
「番号は?」
「必要なら使えます」
少年は少し考えた。
「じゃあ、何も書かない」
「分かりました」
係の青年は札を受け取った。
少年はそのまま席へ向かった。
昼食が終わるころ、少年の隣に座っていた老人が声をかけた。
「名前を聞かないんだな」
少年は振り向いた。
「聞いてほしいですか?」
老人は笑った。
「いや。昔は、名前を知らないと何もできないと思っていた」
「今は?」
「分からなくなった」
少年は少し考えた。
「僕も、名前が必要なときと、必要じゃないときがあると思います」
老人は頷いた。
その日の午後、海のところへ食堂の青年が来た。
「少し変なことがありました」
「何でしょう?」
「昨日まで名前を書いていた人が、今日は書かなかったんです」
「よくあることでは?」
「そうなんですが、その人があとで『どうして名前を聞かなかったのか』と聞いてきました」
海は少し笑った。
「聞いてほしかったんでしょうか」
「分かりません」
「本人に聞きましたか?」
「聞きました」
「何と?」
「『聞かれなかった理由が知りたかった』と言われました」
海は黙った。
青年は続けた。
「名前を聞かれないことが、安心する人もいる。でも、聞かれないことで、自分が無視されたように感じる人もいるんですね」
「そうですね」
「同じことなのに、受け取り方が違う」
「はい」
青年は少し考えてから言った。
「だから、名前を聞くかどうかも難しいですね」
「必要なら聞く。それ以外は本人に選んでもらう」
「それだけでいいんでしょうか」
「それ以上を決めると、また誰かの代わりに決めることになります」
青年は納得したように頷いた。
その夕方、例の青年が再び来た。
「海さん」
「はい」
「今日は名前を使ってください」
「分かりました」
「でも、記録には残さないでください」
海は少し驚いた。
「名前を呼ぶことと、記録することを分けたいんですね」
「はい」
「理由は?」
青年はしばらく黙った。
「名前を呼ばれるのは、自分で選べます」
「記録は?」
「残るからです」
海は頷いた。
「分かりました」
青年は安心したように笑った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
青年が帰ったあと、湊が言った。
「呼ぶことと残すことは、別なんですね」
「そうですね」
「名前を知っていても、記録しないことがある」
「あります」
「記録していても、呼ばないこともある」
「あります」
湊は机の上に置かれた書類を見た。
「じゃあ、記録って何のためにあるんでしょう」
海はすぐには答えなかった。
「後から必要になることがあります」
「でも、後から必要になるかどうかは、その時には分からない」
「そうですね」
「それなら、何でも残せばいいんでしょうか」
海は首を横に振った。
「残すことで困る人もいます」
「残さないことで困る人もいる」
「はい」
二人とも黙った。
その日の夜、海は記録の欄を一つ追加した。
――本人が、現在の使用を希望するか。
名前そのものではなく、
その名前をいつ、どこで、どのように使うのか。
必要なときだけ確認できるようにした。
翌朝、その欄を見た青年が言った。
「これ、前より難しくなってませんか?」
海は少し考えてから答えた。
「たぶん」
青年は笑った。
「じゃあ、間違えないようにしないと」
海は記録を閉じた。
「間違えたら、直せばいいですよ」
青年はその言葉を聞いて、少しだけ安心したようだった。




