第330章 呼ばれなかった名前
食堂で新しい札が使われるようになってから、一週間が過ぎた。
名前を使う人。
番号を使う人。
昔からの呼び名を使う人。
その日の気分で変える人。
最初は珍しがっていた人たちも、次第に何も言わなくなった。
ある日の昼、若い男が札を受け取った。
「今日は名前を書いていないんですね」
係の青年が言った。
「はい」
「呼び名も?」
「はい」
「番号で?」
男は首を振った。
「今日は呼ばなくていいです」
青年は少し困った。
「呼ばなくていい?」
「自分で取りに来ます」
「分かりました」
青年は札を横に置いた。
男は食事が用意されると、自分で受け取った。
それを見ていた別の客が言った。
「それなら、札そのものがいらないんじゃないですか?」
青年は答えた。
「食事の数を確認するためには必要です」
「名前は?」
「必要ありません」
男は黙って食事を持っていった。
ところが、食事を受け取ったあと、別の人がその男を呼び止めた。
「あなた」
男が振り返る。
「昨日、名前を書いていましたよね?」
「書いていました」
「今日は?」
「今日は書きませんでした」
「何かあったんですか?」
男は少し考えた。
「何もありません」
「では、なぜ?」
「今日は呼ばれたくなかったからです」
「誰かに?」
「誰かにというより、名前で」
相手は少し黙った。
「名前が嫌いなんですか?」
「嫌いではありません」
「じゃあ、なぜ?」
「今日は必要なかったんです」
それだけ言って、男は席へ戻った。
午後、海のところへ食堂から連絡が入った。
「名前を書かない人が増えています」
「困っていますか?」
「食事の配分には問題ありません」
「では?」
「名前を呼ばないことで、何か隠しているのではないかと思う人がいます」
海は少し考えた。
「それは、その人たちの想像ですね」
「はい」
「実際に問題が起きていますか?」
「今のところありません」
「なら、名前を書かないこと自体を問題にしないほうがいいと思います」
「でも、誰なのか分からないと困る場合もあります」
「その場合は、必要な確認だけしてください」
「本人に聞く?」
「はい」
「他人に聞くのではなく?」
「まず本人に」
食堂の青年は頷いた。
その日の夕方、一人の女性が海のところへ来た。
「名前を書かない人について聞きたいんです」
「どの人でしょう?」
「今日、名前を書かなかった人です」
「どうして気になるんですか?」
「昔の知り合いに似ていました」
海は少し間を置いた。
「似ているだけですか?」
「はい」
「本人に確認したい?」
女性は首を横に振った。
「怖いんです」
「何が?」
「もし本人だったら、どうすればいいのか分からないんです」
海は黙っていた。
「だから、確認したくないんです」
「それでも気になる?」
「はい」
「では、今は確認しないという選択もできます」
女性は少し驚いた。
「確認しなくてもいいんですか?」
「必要がないなら」
女性はしばらく考えた。
「では、そうします」
「分かりました」
女性は帰った。
翌朝、食堂の札には新しい選択肢が増えていた。
名前。
番号。
呼び名。
呼ばない。
係の青年が書いたものだった。
海はその札を見て、何も言わなかった。
昼になると、最初に「呼ばない」を選んだ男が来た。
青年が札を渡す。
「今日も呼ばなくていいですか?」
男は少し考えた。
「今日は名前でお願いします」
青年は名前を確認した。
「分かりました」
男は名前を呼ばれるのを聞いて、普通に食事を受け取った。
昨日と同じ人だった。
ただ、今日の彼は名前を呼ばれることを選んでいた。




