第329章 名前を呼ぶ人
その翌週、町の小さな食堂で、名前を呼ぶことについて問題が起きた。
食堂には、登録された名前を書いた札が並んでいた。
食事を受け取るとき、係の者が札を確認し、名前を呼ぶ。
いつものやり方だった。
その日、一人の女性が自分の札を受け取ると、名前の部分を指で隠した。
「番号だけで呼んでもらえますか?」
係の青年は困った顔をした。
「いつも名前で呼んでいますが……」
「今日は名前を呼ばないでほしいんです」
「理由を聞いても?」
女性は首を横に振った。
「言いたくありません」
青年は少し考えた。
「分かりました」
札の名前を隠し、番号だけを呼んだ。
ところが、後ろに並んでいた男が声を上げた。
「その名前、昔から知っています」
女性が振り返った。
「そうですか」
「昔、同じ名前の人がいました」
「私ではありません」
「でも、同じ名前です」
「はい」
男は少し困った。
「その人は、ここで働いていました」
「私は働いていません」
「そうですか」
それ以上、男は何も言わなかった。
女性は食事を受け取って席についた。
しばらくして、男も別の席に座った。
食堂の係の青年が海のところへ相談に来たのは、その日の夕方だった。
「名前を呼ばないようにすることは、問題ありませんか?」
「本人が希望しているなら、必要な範囲で対応すればいいと思います」
「でも、周りの人が昔の名前を知っていたら?」
「その人が同じ人だと確認できない限り、同じ人として扱わないほうがいいでしょう」
「本人が違うと言っている場合は?」
「本人の現在の意思を尊重してください」
青年は頷いた。
「もう一つあります」
「何でしょう?」
「名前を呼ばないことで、逆に目立ってしまうんです」
海は少し考えた。
「それなら、名前を呼ばないこと自体を特別扱いにしない方法を考えたほうがいいかもしれません」
「例えば?」
「番号で呼ぶ人もいれば、名前で呼ぶ人もいる。呼ばれたくない人には、別の呼び方を使う」
「全員が選べるようにする?」
「それなら、特定の人だけが目立ちにくくなります」
青年は考え込んだ。
「明日から試してみます」
翌日、食堂では新しい札が用意された。
名前。
番号。
呼び名。
三つの欄があった。
客は自分で選べる。
最初は戸惑う人もいた。
「呼び名って、何を書けばいいんですか?」
「自分が呼ばれたい名前で大丈夫です」
「本名じゃなくても?」
「はい」
「じゃあ、『海』で」
誰かが笑った。
別の人は番号を選んだ。
ある老人は昔からの名前を書いた。
誰も理由を聞かなかった。
昼過ぎ、先日の女性も来た。
係の青年が尋ねた。
「今日はどうしますか?」
女性は札を見た。
少し考えてから、呼び名の欄に一文字だけ書いた。
「これでお願いします」
「分かりました」
青年はその文字を見て呼んだ。
女性は振り返った。
食事を受け取り、席へ向かった。
その途中、先日の男と目が合った。
男は一瞬だけ女性を見た。
そして何も言わなかった。
女性も何も言わなかった。
二人は互いに名前を呼ばなかった。
それでも、同じ食堂で食事をした。
夕方、青年が海に報告した。
「今日は誰も揉めませんでした」
「それはよかったですね」
「でも、昔の名前を知っている人は、まだいます」
「はい」
「名前を変えたわけではありませんから」
「そうですね」
青年は笑った。
「でも、呼び方は変えられました」
海は頷いた。
名前そのものが変わらなくても、呼び方が変わることはある。
そして、呼び方が変わったからといって、過去まで消えるわけではない。
海はその日の記録を残した。
名前についてではなく、
「本人が選んだ呼び方を使った」
とだけ書いた。




