第328章 名前を残したい人
数日後、診療所から一枚の紙が届いた。
前に来た青年についてだった。
今回は、名前が書かれていた。
海は少し意外に思った。
添えられた短い文には、こうあった。
――本人から名前を記録してほしいと言われました。
海はその記録を確認した。
前回の診療では、名前を聞かなかった。
その後、青年はもう一度診療所を訪れたらしい。
今度は自分から名前を名乗った。
ただし、その名前を他人に伝えてよいとは言っていなかった。
海は記録の最後に、
「本人の希望により記録する」
とだけ書かれているのを確認した。
午後、青年本人が海のところへ来た。
「名前を記録してもらったと聞きました」
「はい」
「伝えられていませんよね」
「誰にも?」
「はい」
「少なくとも、こちらから誰かに伝えることはしていません」
青年は安心したように頷いた。
「前は、名前を知られたくなかったんです」
「今は違う?」
「少し違います」
青年は椅子に座った。
「名前がないと、自分まで存在していないような気がしたんです」
海は何も言わなかった。
「でも、知られるのも嫌でした」
「今も?」
「はい」
「では、どうして記録したいと思ったんですか?」
青年は少し考えた。
「自分で名前を出したかったからです」
「誰かに聞かれて答えるのではなく?」
「はい」
海は頷いた。
「それなら、前の記録と今回の記録を分けておきます」
「できますか?」
「できます」
「前に名前を聞かなかったことも残してください」
「なぜですか?」
青年は少し笑った。
「そのときの自分も、自分だからです」
海はその言葉を書き留めた。
青年は立ち上がった。
「もう一つお願いします」
「何でしょう」
「もし誰かが僕の名前を聞いてきても、本人に確認してください」
「あなたに?」
「はい」
「その都度?」
「その都度」
海は頷いた。
「分かりました」
青年が帰ったあと、湊が記録を見ていた。
「前は名前を知られたくなかったのに、今は名前を残したいんですね」
「はい」
「矛盾してますね」
「そうですね」
「でも、どちらも本人が決めたことです」
海は記録を二つに分けた。
一つ目には、名前を記録しなかった日の診療。
二つ目には、本人が名前を記録した日の診療。
「同じ人の記録なのに、名前がある日とない日があります」
湊が言った。
「それでいいんでしょうか」
「たぶん」
「たぶん?」
「人は、いつも同じことを望むわけではありません」
湊は少し笑った。
「海さん、最近そればかり言ってませんか」
「そうですか?」
「はい」
海は否定しなかった。
その日の夕方、別の女性がやって来た。
「この名前について聞きたいんですが」
彼女が紙に書いた名前は、以前問い合わせのあった名前と同じだった。
海は顔を上げた。
「その名前を、どこで知りましたか?」
「古い名簿です」
「その人を探していますか?」
「いいえ」
「では、何を?」
女性は紙を見ながら答えた。
「その名前を、今でも使っていいのか知りたいんです」
海は少し考えた。
「誰が使うんですか?」
「私です」
「今も使っていますか?」
「はい」
「その名前を使わないように言われたことは?」
「ありません」
「では、なぜ確認したいんですか?」
女性は黙った。
「昔、その名前を使っていた人がいたからです」
「本人を知っていますか?」
「知りません」
「会ったことも?」
「ありません」
「それでも?」
女性は頷いた。
「同じ名前を使っていることが、誰かを傷つけるかもしれないと思って」
海は答えを急がなかった。
「その名前を使うことをやめたいですか?」
「分かりません」
「では、今すぐ決めなくてもいいと思います」
女性は紙を折った。
「そうします」
彼女は帰っていった。
海はしばらく、何も書かなかった。
名前を使うこと。
名前を使わないこと。
名前を記録すること。
名前を記録しないこと。
どれも、同じ人の中で変わることがある。
その日の最後に海が記録したのは、名前ではなかった。
――本人が決めるまで、決めない。




