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嘘の向こう側  作者: 亀


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第327章 名前を聞かない人

翌日の朝、診療所から連絡が入った。


「海さん、少し相談したいことがあります」


電話の向こうにいたのは、診療所の受付をしている女性だった。


「何でしょう?」


「昨日、若い男性が来ました」


「どんな人ですか?」


「それが、名前を聞いていないんです」


海は少し黙った。


「聞かなかった?」


「はい」


女性は続けた。


「怪我をしていました。大きな怪我ではありません。でも、名前を聞こうとしたら、『名前は必要ですか』と言われました」


「それで?」


「診察そのものには必要な情報だけ確認しました」


「年齢は?」


「本人がだいたいの年齢を答えました」


「住所は?」


「ありませんでした」


「連絡先は?」


「それもありません」


海は記録をめくった。


「薬は?」


「渡しました」


「支払いは?」


「後でいいことにしました」


「では、何を相談したいんですか?」


女性は少し迷った。


「名前を聞かなかったことが、あとで問題になるでしょうか」


海はすぐには答えなかった。


「その人がまた来たら、同じ人だと確認できませんね」


「はい」


「でも、名前を聞けば必ず確認できるわけでもありません」


「どういう意味ですか?」


「別の人が同じ名前を名乗ることもあります」


女性は黙った。


「それに、名前を言いたくない人から無理に聞けば、次に来なくなることもあります」


「では、聞かないほうがいい?」


「必要な場面なら聞いたほうがいいと思います」


「必要な場面?」


「薬の記録、危険な重複投薬、緊急連絡などです」


「昨日は?」


「昨日は、そこまで必要ではなかったんですね」


「はい」


電話の向こうで女性が息を吐いた。


「それなら、今の記録のままでいいでしょうか」


「診療所で判断してください」


「分かりました」


電話が切れた。


昼前、診療所の女性が直接来た。


手には昨日の記録があった。


「もう一つ気になることがあります」


「何でしょう?」


「昨日の男性が、帰るときに言ったんです」


「何と?」


「『名前を聞かない人がいることを覚えておいてください』と」


海は少し考えた。


「その人は、名前を知られたくないんでしょうか」


「そこまでは聞いていません」


「また来る可能性は?」


「分かりません」


女性は記録を見た。


「私は、名前を聞かなかったことを失敗だと思っていました」


「今は?」


「少し違います」


「どう違いますか?」


「名前を聞かなかったからこそ、昨日は診療だけで終わったのかもしれないと思って」


海は頷いた。


「ただ、次に来たときは事情が変わっているかもしれません」


「そのときは、必要なことを聞きます」


「はい」


午後になって、別の人物が窓口へ来た。


「昨日、診療所にいた男性について知りたいんですが」


海は顔を上げた。


「どの男性でしょう」


「名前は分かりません」


「では、こちらでは確認できません」


「昨日、ここに相談したと聞きました」


「誰から聞きましたか?」


男は答えなかった。


「知りたい理由は?」


「昔の知り合いかもしれないからです」


海は診療所から届いた記録を思い出した。


だが、名前も記録番号もない。


「確認できません」


「本当に?」


「はい」


男は不満そうだった。


「怪我をしていた男性ですよ」


「怪我をしている人は一人とは限りません」


「若い男でした」


「それだけでは確認できません」


男はしばらく黙っていた。


「もし本人だったら?」


「本人が自分から名乗れば、その時点で話を聞くことはできます」


「こちらから探すことは?」


「しません」


男はため息をついた。


「分かりました」


帰り際、男が振り返った。


「名前を知らないって、そんなに便利なことなんですか?」


海は少し考えた。


「便利かどうかは分かりません」


「では?」


「知らないことで守られるものもあります」


男は何も言わずに出ていった。


海は診療所から届いた記録を、新しい場所に保管した。


そこには名前がなかった。


それでも、昨日診療を受けた人がいたことだけは残っていた。

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