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嘘の向こう側  作者: 亀


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第326章 名前を使う人

数日後、海のところへ一人の青年が来た。


青年は受付の前に立つと、名前を名乗った。


「海さんはいますか?」


「私です」


青年は少し驚いた。


「あなたが海さんですか」


「はい」


「前に、古い名前について相談したことがあります」


海は記録を確認した。


「どの名前でしょう」


青年は紙に名前を書いた。


数日前に問い合わせがあった名前だった。


海は青年を見る。


「この名前を、今も使っていますか?」


「はい」


海は少し黙った。


「以前、この名前を現在の名前として使っていないことを確認したいという問い合わせがありました」


青年の表情が変わった。


「そうですか」


「ただし、問い合わせをした人が誰なのかは伝えられません」


「分かっています」


青年は紙を見つめた。


「その名前は、昔から使っています」


「そうですか」


「でも、昔の記録に書かれている人と同じ人間かどうかは、僕にも分かりません」


「生まれた場所は?」


「違います」


「年齢は?」


青年が答えた。


記録上の人物とは一致しなかった。


「では、同じ名前を使っている別の人かもしれません」


「そうですね」


青年は笑った。


「だから困るんです」


「何がですか?」


「名前が同じだけで、昔の人の話をされるんです」


海は黙って聞いた。


「一度だけならいいんです。でも、何人かから同じことを言われました」


「何と言われましたか?」


「『あなた、あの人の息子でしょう』とか、『あのとき逃げた人でしょう』とか」


「違うんですか?」


「分かりません」


青年は少し考えた。


「少なくとも、僕はその人を知りません」


「でも、否定もしない?」


「僕が知らないだけかもしれないからです」


海は記録を閉じた。


「名前が同じだから、過去まで同じになるわけではありません」


青年は頷いた。


「それは分かっています」


「それでも困っている?」


「はい」


「名前を変えたいですか?」


青年はすぐには答えなかった。


「……それも分かりません」


湊が奥から出てきた。


青年を見るなり、少し驚いた顔をした。


「どうしました?」


「いえ」


青年は湊を見た。


「僕、名前を変えるべきでしょうか」


湊は答えなかった。


海も答えなかった。


しばらくして、青年が苦笑した。


「誰も答えてくれないんですね」


「名前を変えるかどうかは、あなたが決めることです」


海が言った。


「でも、名前を変えたからといって、他人が昔の人と間違えなくなるとは限りません」


「そうですよね」


「逆に、名前を変えなくても、あなたが昔の人でないことを理解する人もいます」


青年は椅子に座った。


「じゃあ、今は変えません」


「分かりました」


「もし、また昔の人の話をされたら、そのとき考えます」


「それでいいと思います」


青年は立ち上がった。


入口まで歩いてから振り返った。


「海さん」


「はい」


「さっきの人には、僕がこの名前を使っていることを伝えないでください」


海は頷いた。


「伝えません」


「理由も?」


「あなたが伝えたくないことは伝えません」


青年は小さく頭を下げた。


その日の夕方、海は数日前の問い合わせ記録を取り出した。


「古い名前が、現在の人を縛ることとは限らない」


その一文を見た。


今度は、その下に別の一文を加えた。


――しかし、現在の人がその名前を使っていることも、過去の人と同じである証拠にはならない。


海は二つの文章を並べたまま、しばらく机の上に置いていた。


どちらも、消さなかった。

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