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嘘の向こう側  作者: 亀


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第325章 返さない名前

翌朝、女性はもう一度来た。


昨日渡した紙を、今度は持っていなかった。


「紙は置いてきました」


海が言った。


「はい」


「どうしてですか?」


女性は少し考えてから答えた。


「持っていると、また探したくなる気がしたので」


「探したくないんですか?」


「探したくないというより、探さないほうがいいと思っています」


昨日と似た言葉だった。


けれど、女性の声は少し違っていた。


昨日は誰かに確認してほしい声だった。


今日は、自分自身に確認しているようだった。


湊が水を一杯出した。


女性は礼を言って受け取った。


「昔、その人に名前を返してほしいと言われたんです」


「名前を?」


「はい」


「どういう意味ですか?」


「私たちのところでは、その人を昔の名前で呼ぶのが普通になっていました。でも本人は、その名前を嫌がっていました」


女性は水を一口飲んだ。


「ある日、本人が言ったんです。『その名前は、あなたたちのものにしておいてください』って」


「あなたたちのもの?」


「私にも意味は分かりませんでした」


「それから?」


「その人はいなくなりました」


海は記録を見た。


「どこへ行ったかは?」


「知りません」


「今も分からない?」


「分かりません」


女性は少し笑った。


「だから、名前だけが残ったんです」


海は何も言わなかった。


女性は続けた。


「私は、その名前を本人に返したいと思っていました」


「だから探していた?」


「最初は」


「今は?」


「本人が返してほしいと思っているかどうか、分からないので」


湊が言った。


「それなら、返さないほうがいいということですか?」


女性は湊を見る。


「それも分かりません」


「では、どうするんですか?」


「名前を、そのまま置いておきます」


海は紙を一枚取り出した。


「記録として?」


「はい」


「誰かが見つけたら?」


「必要なら、本人に聞いてください」


「本人が嫌だと言ったら?」


「そのときは、もう使わないでください」


海は書き始めた。


女性はしばらく黙って見ていた。


「海さん」


「はい」


「昨日、私が言ったことは消せますか?」


海は手を止めた。


「昨日の記録ですか?」


「はい」


「どうしてですか?」


女性は少し迷った。


「昨日の私は、その人のために話しているつもりでした」


「今日は違いますか?」


「今日は、自分のために話していたような気がします」


海は記録を閉じた。


「それなら、消すかどうかはあなたが決めたほうがいいと思います」


「海さんが決めるんじゃないんですか?」


「記録する人が、記録される人の代わりに決めることはできません」


女性はしばらく黙った。


「では、残してください」


「昨日の話も?」


「はい」


「理由も?」


「理由は書かなくていいです」


海は頷いた。


「分かりました」


女性が帰ったあと、湊が言った。


「昨日と今日で、言っていることがかなり変わりましたね」


「そうですね」


「でも、嘘ではないんでしょうね」


海は机の上に二枚の紙を並べた。


昨日の紙には、名前を確認したい理由が書かれていた。


今日の紙には、名前を返したい理由が書かれていた。


「同じ人でも、昨日と今日で必要なものが変わることはあります」


「記録はどうします?」


「両方残します」


「矛盾していても?」


「矛盾しているからこそ」


湊は二枚の紙を見た。


その日の午後、古い名前について問い合わせが一件入った。


問い合わせたのは、女性とは別の人だった。


「その名前を知っています」


「どこで知りましたか?」


「昔の記録で見ました」


「本人を知っていますか?」


「いいえ」


「今もその人を探していますか?」


「探していません」


「では、何を知りたいのでしょう?」


相手は少し考えた。


「その名前が、誰かの現在の名前として使われていないことだけです」


海は女性の話を思い出した。


だが、そのことは伝えなかった。


「それについては、確認できません」


「そうですか」


「ただ、名前が記録に残っていることと、現在その名前を使っている人がいることは同じではありません」


相手は少し考えてから答えた。


「それなら、それだけで十分です」


通信が切れた。


海は新しい紙に一行だけ書いた。


――古い名前が残っていることは、現在の人を縛ることとは限らない。


その下に、誰の言葉か分からないように線を引いた。


そして、その紙も記録の中へ入れた。

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