第320章 同じ話ではない
翌朝、受付に一人の老人が来た。
「昨日、写真の話をしていたでしょう」
海は顔を上げた。
「はい」
「私も、あの写真を見ました」
老人は椅子に座った。
「三人写っていたでしょう」
「はい」
「左にいた男を知っています」
海は確認した。
「本人だと確認できますか?」
「顔を見れば分かります」
「名前は?」
老人は名前を言った。
その名前は、これまでの記録にはなかった。
「どこで知り合ったんですか?」
「昔の工場です」
老人は少し笑った。
「毎日一緒に働いていました」
「いつ頃ですか?」
「二十年以上前です」
海は記録用の紙を出した。
「その人について、何か伝えたいことがありますか?」
老人はしばらく考えた。
「働き者でした」
「それだけですか?」
「それだけです」
老人は笑った。
「昔のことを全部話せと言われても、そんなに覚えていませんよ」
海も頷いた。
「では、その内容だけ記録します」
「待ってください」
老人が手を上げた。
「記録には残さなくていいです」
「分かりました」
「ただ、本人に伝えられるなら」
「何をですか?」
老人は少し考えた。
「元気だった、と」
海は確認した。
「あなたが元気だったという意味ですか?」
老人は笑った。
「違います。その人が元気だった頃を、私は覚えているという意味です」
「分かりました」
老人は帰っていった。
昼過ぎ、写真を持っていた女性がやって来た。
「昨日の写真ですが」
海は彼女を見る。
「はい」
「父のことを知っている人が、もう一人見つかりました」
「その人は、何を知っていますか?」
「父と一緒に働いていたそうです」
「何か聞きましたか?」
女性は首を振った。
「少しだけ」
「何を?」
「父が、昔はよく笑っていたって」
女性は写真を見た。
「私が知っている父とは、少し違います」
「どちらが本当でしょうね」
女性は小さく笑った。
「分かりません」
海は答えなかった。
「家では、あまり笑わなかったんです」
「そうですか」
「でも、外では笑っていたのかもしれません」
女性は写真をしまった。
「私が父を知っていたと思っていたこと自体、少し違ったのかもしれません」
その日の夕方、別の男が受付に来た。
「写真の人について聞きたい」
「どの人ですか?」
「真ん中の女性です」
海は写真を確認した。
「知っていますか?」
「名前は知りません」
「どこで見たんですか?」
「昔の避難所です」
「いつ頃ですか?」
「十年以上前」
男は続けた。
「その人は、誰かを待っていました」
「誰を?」
「分かりません」
「どうして待っていたと?」
「毎日、同じ場所に座っていたからです」
海は少し考えた。
「本人から聞いたわけではない?」
「はい」
「では、『待っていたように見えた』という記録にします」
男は少し驚いた。
「それでいいんですか?」
「実際に聞いていないので」
男は頷いた。
「じゃあ、そうしてください」
帰り際、男は振り返った。
「でも、たぶん待っていたと思います」
海は答えなかった。
夜、湊がその記録を読んでいた。
「『待っていたように見えた』ですか」
「はい」
「こういう記録、少し変な感じがします」
「何がですか?」
「事実とも、嘘とも言えない」
海は記録を見た。
「見た人にとっては、本当にそう見えたんでしょう」
「でも、本人は違うと思っていたかもしれない」
「そうかもしれません」
湊は紙を机に置いた。
「同じ人について、いろんな話が集まっていますね」
「はい」
「働き者だった人」
「はい」
「よく笑っていた人」
「はい」
「誰かを待っていたように見えた人」
「はい」
「でも、全部同じ人なのかも分からない」
海は写真を見た。
「写真には三人しか写っていません」
「それなのに、話はもっと増えていく」
「人は、見たものだけではなく、覚えているものも話しますから」
湊は少し黙った。
「じゃあ、どれを信じればいいんでしょう」
海はすぐには答えなかった。
「全部を同じ重さで扱わないことです」
「どういう意味ですか?」
「見たことと、聞いたことと、想像したことを分けておく」
湊は頷いた。
「それなら、全部残せますね」
「必要なものなら」
夜になり、受付の明かりが消えた。
写真は一枚のままだった。
そこに写っている人たちについて、知っている人が少しずつ現れている。
けれど、話が増えるほど、その人物の輪郭がはっきりするわけではなかった。
むしろ、それぞれの記憶の中にある別々の人物が、同じ写真の中に重なっていった。




