第314章 開けない手紙
翌朝、封筒はまだ保管棚に置かれていた。
誰も触れていなかった。
湊が棚を整理しながら、昨日の封筒を見た。
「これ、ずっと置いておくんですか?」
「所有者が分かるまで」
「もし、ずっと分からなかったら?」
海は少し考えた。
「その場合も、勝手には開けません」
「中に何が入っているか分からないからですか?」
「それもあります」
海は封筒を見た。
「中身を知ることと、本人に届けることは別だからです」
湊は頷いた。
その日の昼、昨日の高齢の男性が再び来た。
「昨日の封筒ですが」
「はい」
「少し思い出しました」
海は席を勧めた。
男性は座らず、封筒を見た。
「昔、その人と一度だけ大きな喧嘩をしました」
「そうですか」
「その後、会わなくなりました」
「理由を記録しますか?」
男性は首を振った。
「しなくていいです」
「分かりました」
「でも、昨日言ったことを訂正したいです」
海は待った。
「昔のことを知っている人間がいた、とだけ伝える必要もないかもしれません」
「どうしてですか?」
「その人が忘れたいことまで思い出させるかもしれないからです」
海は何も言わなかった。
男性はしばらく封筒を見ていた。
「昨日は、伝えたほうがいいと思ったんです」
「今日は違いますか?」
「はい」
「分かりました」
男性は帰っていった。
湊が言った。
「昨日と今日で、話が変わりましたね」
「そうですね」
「どちらが本当なんでしょう」
海は封筒を棚に戻した。
「どちらも、そのときの本人の考えだと思います」
午後になると、今度は若い女性が受付に来た。
「古い手紙について聞きたいんですけど」
海は確認した。
「宛名は分かりますか?」
女性は名前を言った。
昨日の封筒と同じ名前だった。
「その手紙、私の父宛かもしれません」
「お父さんの名前は?」
女性は現在使っている名前を答えた。
海は古い記録を確認した。
別の名前が一つ出てきた。
女性は画面を見て、少し驚いた。
「それ、父の昔の名前です」
「本人だと確認できますか?」
「できます」
「では、封筒について確認します」
女性は頷いた。
しかし、封筒を見せたところで、表情が変わった。
「……これ、見たことがあります」
「差出人を知っていますか?」
「はい」
女性は封筒から少し離れた。
「誰からですか?」
海は答える前に確認した。
「知りたいですか?」
女性は黙った。
「……分かりません」
「今は?」
「今は、知りたくないです」
海は封筒をしまった。
女性は驚いたように海を見た。
「開けなくていいんですか?」
「本人が望まないなら」
「父はもう亡くなっています」
「それでもです」
女性はしばらく黙っていた。
「父なら、開けたかもしれません」
「そうかもしれません」
「でも、私は父ではない」
海は頷いた。
女性は少し笑った。
「それなら、私が勝手に決めることでもないですね」
帰り際、女性は言った。
「もし、父本人が生きていたら、どうしていましたかね」
海は答えなかった。
その質問には、確認できる記録がなかった。
夕方、湊が封筒の保管記録を更新した。
所有者候補が見つかった。
しかし、開封の同意は確認できない。
差出人も確認できる。
ただし、現在の連絡先は不明。
そして、昨日まで「伝える」としていた男性は、その意思を撤回した。
湊は記録を書き終えてから、海に聞いた。
「これって、結局何も進んでいないんじゃないですか?」
海は棚を見た。
「そうかもしれません」
「所有者候補は分かったのに?」
「分かったことと、進めていいことは別です」
湊は少し考えた。
「じゃあ、この手紙はどうなるんでしょう」
「しばらくここにあると思います」
「ずっと?」
「分かりません」
夜になった。
配給所の明かりが一つずつ消えていく。
棚の中には、古い封筒が一つ残っていた。
宛名も、差出人もある。
それでも、まだ開かれていない。
誰かにとって大切な手紙かもしれない。
誰かにとって、もう必要のない手紙かもしれない。
誰かにとっては、開かないほうがいい手紙かもしれない。
そのどれなのかを、今ここにいる人間だけで決めることはできなかった。
だから、その夜も封筒は開けられなかった。




