第313章 伝えなかった理由
翌朝、受付に一人の女性が来た。
昨日の記録を確認するためだった。
「昨日、誰かを探している人が来ませんでしたか?」
海は顔を上げた。
「どうしてそう思ったんですか?」
女性は少し困ったように笑った。
「昨日、昔の知り合いから連絡があったんです」
「ここに来たことについてですか?」
「いえ。何も聞いていません」
女性は椅子に座った。
「ただ、昔の名前を知っている人から連絡が来たので」
海は返事をしなかった。
「私の名前、ここに残っていますか?」
「現在の名前ですか?」
「昔の名前も含めてです」
海は記録の扱いを説明した。
必要な手続きのために旧名が残っている場合があること。
ただし、本人の同意なく第三者に伝えることはしないこと。
女性は黙って聞いていた。
「じゃあ、誰かが私を探してきても、勝手には教えないんですね」
「必要な確認をしてからになります」
「そうですか」
女性は少し安心したようだった。
しかし、その直後に言った。
「でも、もし私が知っている人だったら、教えてもいいです」
海は確認した。
「誰でもですか?」
「いえ」
女性は首を振った。
「昔の職場の人なら、たぶん大丈夫です」
「家族は?」
女性はしばらく考えた。
「それは……分かりません」
「友人は?」
「人によります」
海は紙を一枚出した。
「では、誰に何を伝えていいか、今決めますか?」
女性は紙を見つめた。
「今ですか?」
「あとから変更することもできます」
女性は少し笑った。
「それなら、今は決めないでください」
「分かりました」
「自分でも、まだよく分からないので」
海は紙をしまった。
女性は立ち上がり、帰ろうとした。
その途中で振り返った。
「昨日の人とは、別の人ですよね?」
海は答えなかった。
女性も、それ以上は聞かなかった。
昼過ぎ、湊が古い記録を整理していると、一枚の封筒が見つかった。
宛名には、現在使われていない名前が書かれていた。
「これ、どうします?」
海が確認すると、封筒の裏には古い日付があった。
十年以上前のものだった。
「宛先は?」
「以前の居住区です」
「今の住所は分かりますか?」
「分かりません」
「中身は?」
「開けていません」
湊は封筒を机に置いた。
「本人に渡せる可能性はありますか?」
「あると思います」
「でも、本人が欲しいかどうかは?」
海は封筒を見た。
「分かりません」
「じゃあ、どうします?」
「所有者を確認しましょう」
湊は封筒を持って、古い記録を調べ始めた。
しばらくして、一つの名前が見つかった。
ただし、その名前は以前の名前だった。
現在の名前は記録されていない。
さらに調べると、同じ名前を持つ別人の記録も見つかった。
湊は手を止めた。
「またですね」
「何が?」
「名前はあるのに、本人が分からない」
海は頷いた。
「だから、名前だけで渡さない」
その日の夕方、封筒について心当たりのある人物が一人見つかった。
高齢の男性だった。
「その名前なら知っています」
「本人ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
男性は苦笑した。
「昔の同僚です。十年以上会っていません」
「この封筒に心当たりは?」
男性は封筒を見た。
「ありません」
「差出人の名前は?」
「見れば分かるかもしれません」
海は封筒を裏返した。
差出人の名前も、古い名前だった。
男性はしばらく考えた。
「……この人かもしれません」
「確定できますか?」
「できません」
男性は封筒を返した。
「でも、もし本人なら、たぶん今は会いたくないと思います」
「どうしてですか?」
男性は答えなかった。
「昔、何かあったんですか?」
「そういう聞き方をされると、話したくなくなります」
海はそこで止めた。
「分かりました」
男性は少し驚いた顔をした。
「聞かないんですか?」
「今は必要ありません」
男性は頷いた。
帰る前に、男性が言った。
「ただ、その人に伝えるなら」
「はい」
「昔のことを知っている人間が、ここにいたということだけ伝えてください」
海は確認した。
「名前は伝えますか?」
男性は少し迷った。
「……それも、本人に任せてください」
その夜、封筒は開けられなかった。
宛先も、差出人も分かっている。
それでも、渡す相手を決めることはできなかった。
海は封筒を新しい保管袋に入れた。
袋の表には、
「所有者未確認」
とだけ書いた。
その下に湊が小さく、
「伝える内容について本人の意思を確認すること」
と付け加えた。
二人とも、それ以上は書かなかった。
封筒の中には、まだ誰も読んでいない手紙が入っていた。




