↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘の向こう側  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

312/590

第312章 言わなかった名前

午後の配給所に、一人の若い男が来た。


受付の前で立ち止まり、何度か口を開きかけてから、結局何も言わなかった。


海は急かさずに待った。


「何かありますか?」


「……人を探しています」


「名前は分かりますか?」


男は少しだけ目を伏せた。


「分かります」


「連絡先は?」


「分かりません」


「以前いた場所は?」


「たぶん、分かります」


海は紙を一枚出した。


「分かる範囲で書いてください」


男は名前を書いた。


その下に、以前住んでいた場所を書いた。


そして、筆を止めた。


「どうしました?」


「これを渡してもらうことはできますか?」


海は紙を見た。


「誰にですか?」


「その人に」


「その人が今ここにいるかは分かりません」


「はい」


「見つかった場合、連絡していいですか?」


男は黙った。


しばらくしてから言った。


「……名前だけなら」


「名前だけ?」


「私が探しているとは、言わないでください」


海は紙の余白を見た。


「分かりました」


男は安心したように頷いた。


「それと」


「はい」


「もし、その人が会いたくないと言ったら、そこで終わりにしてください」


海は名前の横に小さく印をつけた。


「本人の意思を優先する、ということでいいですか?」


「はい」


「分かりました」


男は帰っていった。


湊が後ろから近づいてきた。


「知り合いなんでしょうか」


「そうだと思います」


「家族?」


「そこまでは聞いていません」


湊は紙を見た。


「名前だけで探すんですか?」


「名前と以前の居住地です」


「見つかると思いますか?」


海は答えなかった。


見つかるかどうかは分からない。


そもそも、その名前の人物が今もその場所にいるかも分からない。


午後の作業が終わるころ、別の部署から連絡が来た。


「この名前の人、以前ここにいたかもしれません」


海は紙を受け取った。


同じ名前だった。


以前の居住区も近い。


ただし、住所は一致していない。


「本人確認は?」


「できていません」


「今いるかどうかは?」


「分かりません」


海は最初の紙を取り出した。


男が残した名前。


その下には、本人に会いたいという言葉は書かれていなかった。


ただ、名前だけだった。


「この情報をそのまま渡すことはできますか?」


担当者が聞いた。


海は少し考えた。


「本人に確認してからにしましょう」


「でも、探している人がいることだけ伝えるのは?」


「それも、本人が知りたいか分かりません」


担当者は納得しきれない顔をした。


「探している側は、見つけてほしいんですよね?」


「そうだと思います」


「だったら、伝えたほうがいいんじゃないですか?」


海は最初の紙を見た。


「探している側が望んでいることと、探されている側が望んでいることは、同じとは限りません」


担当者は何も言わなかった。


その日の夕方、本人確認のための連絡が一度だけ試みられた。


しばらくして、返事が来た。


「その名前の人なら、います」


海は確認した。


「今、話せますか?」


「はい」


「昔の名前で呼ばないほうがいいですか?」


向こうで少し間があった。


「……今の名前でお願いします」


海は名前を訂正した。


それから、必要なことだけを伝えた。


「あなたを探している人がいます」


長い沈黙があった。


「誰ですか?」


「名前を伝えることはできます」


「……いいえ」


返事は早かった。


「名前は聞きません」


海は黙って待った。


「でも、その人に伝えてください」


「何をですか?」


「私は生きています」


それだけだった。


海は記録を残した。


本人は生存を伝えることを希望した。


ただし、名前、住所、現在地、連絡先は伝えない。


そして最後に、本人が一つだけ付け加えた。


「もし、また探してきたら」


「はい」


「そのときは、私が決めます」


海は頷いた。


「分かりました」


通話が終わった。


夜になって、最初の男が戻ってきた。


「何か分かりましたか?」


海は少し考えた。


そして、約束した範囲だけを伝えた。


「その人は生きています」


男は目を閉じた。


しばらく何も言わなかった。


「……それだけですか?」


「はい」


「名前は?」


「伝えないでほしいと言われました」


男は俯いた。


怒ることも、責めることもしなかった。


ただ、長い間そこに立っていた。


「分かりました」


やがてそう言った。


「生きているなら、それでいいです」


男は帰っていった。


海は二枚の紙を並べた。


一枚には、探している人の名前。


もう一枚には、探されている人の現在の意思。


二つの紙は、同じ人物について書かれている。


それでも、同じ情報を共有する必要はなかった。


海は二枚を別々の場所にしまった。


どちらも、消さなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。