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嘘の向こう側  作者: 亀


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第310章 聞かなかった答え

 掲示板の紙は、朝から何度も人の目に触れた。


 誰かが立ち止まり、読む。


 少し考える。


 そして、そのまま仕事へ戻る。


 誰も紙を剥がさなかった。


 昼前、学校から教師が一人来た。


「海さん、相談があります」


「はい」


「昨日、ある生徒から質問されたんです」


「どんな質問ですか?」


「『先生は、私のことをどこまで知っているんですか』と」


 海は黙って聞いた。


「私は、学校に必要なことしか知りません、と答えました」


「その子は?」


「少し安心したようでした」


「それで終わりですか?」


「いいえ」


 教師は苦笑した。


「そのあと、『じゃあ、先生は知らないことを知りたいですか』と聞かれました」


「どう答えたんですか?」


「知りたいこともある、と」


「その子は?」


「『でも、聞かないんですね』と言いました」


 海は少し考えた。


「それで?」


「聞かないほうがいいこともある、と答えました」


 教師はそこで言葉を止めた。


「でも、あとから少し迷いました」


「どうして?」


「教師なら、子供のことを知っておいたほうがいいのではないかと思って」


「何か問題があったんですか?」


「それが、分からないんです」


 教師は一枚の紙を出した。


 学校で使っている記録だった。


 最近、その生徒の出席が少し不安定になっている。


 遅刻も増えている。


 しかし、本人は理由を話していない。


「確認したほうがいいでしょうか」


「学校に必要なことなら、聞いていいと思います」


「必要かどうかの境目が難しいんです」


「本人の生活に直接関わるなら、確認する必要があるかもしれません」


「でも、理由そのものまで?」


「必ずしも必要ではないと思います」


 教師は紙を見た。


「たとえば、『遅刻の理由』ではなく、『これから遅刻が続く可能性があるか』だけ聞く?」


「そういう聞き方もできる」


「なるほど」


 その日の午後、教師は学校へ戻った。


 翌日、再び倉庫へ来た。


「聞いてみました」


「どうでした?」


「その子は、朝に家を出るのが遅くなっていると言いました」


「理由は?」


「聞きませんでした」


 教師は少し笑った。


「でも、『しばらく続くかもしれない』とは言ってくれました」


「それなら、学校側で対応できますね」


「はい」


「理由を知らなくても?」


「はい」


 教師は少し考えてから言った。


「知ることと、対応することは、別なんですね」


「そうかもしれません」


 教師は帰っていった。


 その日の夕方、今度は湊が受付で困っていた。


「海さん、これどうしましょう」


「何?」


「この人、荷物を受け取りに来たんですけど、名前を確認されたくないそうです」


「荷物は本人宛て?」


「はい。ただ、名前は古いものです」


 海が受付へ行く。


 そこには若い女性が立っていた。


「本人確認に必要な情報だけで大丈夫ですか?」


「はい」


「以前の名前については?」


「確認されたくありません」


「分かりました」


 必要な情報だけを確認し、荷物を渡す。


 女性は帰ろうとした。


 しかし、入口で立ち止まった。


「一つ聞いてもいいですか?」


「はい」


「もし、私の昔の名前を知っている人が来たら、教えないでもらえますか?」


 職員が海を見る。


「本人の希望として記録しておきます」


「ありがとうございます」


 女性は帰った。


 湊が記録を書き始める。


「『昔の名前を第三者に伝えない』」


「うん」


「例外は?」


「生命や安全に関わる場合は、今までと同じ」


「分かりました」


 湊が書き終えたところで、ふと顔を上げた。


「でも、もしその人が昔の名前を知っている人と会いたいと思ったら?」


「そのときは本人が決める」


「同じ情報でも、本人の希望で扱いが変わるんですね」


「そうだね」


 夜になった。


 掲示板の前を通った海は、朝の紙を見た。


 その下に、新しい文章が加わっていた。


 ――聞かないことは、無関心とは限らない。


 少し離れたところに、別の字があった。


 ――聞かないことで、相手に選ぶ時間を残すこともある。


 さらにその下には、何も書かれていなかった。


 翌朝。


 昨日の女性が、再び受付に来た。


「すみません」


「はい」


「昨日の記録なんですが、一つ変えてもいいですか?」


「もちろんです」


「『昔の名前を第三者に伝えない』ではなくて……」


 女性は少し迷った。


「『本人の同意なく、昔の名前を第三者に伝えない』にしてください」


 職員が頷いた。


「どうして変えたいんですか?」


「いつか、自分から伝えるかもしれないので」


 記録は修正された。


 女性は確認してから、静かに帰っていった。


 海はその後ろ姿を見ていた。


 昨日決めたことが、今日変わる。


 変わったからといって、昨日が間違いだったとは限らない。


 ただ、今日の本人には、今日の希望がある。


 記録担当者は、それを書き直した。


 そして掲示板には、まだ昨日の言葉が残っていた。


 誰も、それを消そうとはしなかった。

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