第309章 書かれていない名前
青年は、しばらくノートを開いたまま動かなかった。
最初のページには、あの一行しかない。
――聞かれなかったことは、忘れたこととは違う。
その下には、何も書かれていなかった。
「続きは……?」
青年が呟いた。
「次のページを見てみよう」
湊が言った。
青年はゆっくりページをめくった。
日付があった。
十年以上前のものだった。
その下に短い文章が並んでいる。
――今日は雨。
――仕事へ行った。
――帰りにパンを買った。
――隣の部屋の人が引っ越した。
特別なことは何も書かれていなかった。
青年はページをめくり続けた。
同じような記録が何ページも続く。
誰かの名前はほとんど出てこない。
「隣の人」
「受付の人」
「店の人」
「昔の友人」
そんな書き方ばかりだった。
「父は、こんな書き方をする人だったんですか?」
青年が尋ねた。
海は首を横に振った。
「知らない」
「ですよね」
青年は少し笑った。
そして、またページをめくった。
ある日付のところで、文章が長くなっていた。
――今日は、昔の知り合いに会った。
――名前を聞かれた。
――答えなかった。
――相手も、それ以上聞かなかった。
青年の手が止まる。
「誰なんだろう」
湊がノートを覗き込んだ。
「名前は書いてないですね」
「うん」
次のページには、こう書かれていた。
――名前を書けば、あとで探されるかもしれない。
――探されたくないわけではない。
――ただ、今は会いたくない。
青年は黙った。
海も何も言わなかった。
さらにページをめくる。
今度は別の日付だった。
――今日は、名前を聞かなかった。
――聞けば、安心できたかもしれない。
――でも、聞かないことで安心できる人もいる。
青年はノートを閉じた。
「父は……誰かを避けていたんでしょうか」
「分からない」
「この人たちが誰なのかも?」
「分からない」
青年はしばらく考えた。
「じゃあ、何のために書いたんでしょう」
海はノートを見た。
「忘れないためかもしれない」
「でも、名前を書いてない」
「だから、名前を残すことが目的じゃなかったのかもしれない」
青年はノートを自分の前に引き寄せた。
「もう少し読んでもいいですか?」
「もちろん」
その後、しばらく誰も話さなかった。
ページをめくる音だけが続いた。
あるところで、青年が突然手を止めた。
「これ……」
そこには、短い文章があった。
――息子が大きくなった。
――何も話してくれない。
――私も何も聞かなかった。
青年は顔を上げた。
「俺のことですよね」
海は答えなかった。
「たぶん、そうですよね」
「日付は?」
青年が見る。
「俺が中学生の頃です」
湊が小さく息を吐いた。
青年は次のページをめくった。
――聞けば話してくれたかもしれない。
――聞かなくても、いつか話してくれるかもしれない。
――どちらが正しいのか分からない。
その先には、何も書かれていなかった。
青年はしばらくページを見つめていた。
「父は、俺に聞きたかったのかな」
「分からない」
「どうして聞かなかったんだろう」
「本人にしか分からないと思う」
青年はノートを閉じた。
「でも、今なら聞けます」
湊が何も言わずに青年を見る。
「もう、聞けないですけど」
その声は静かだった。
海はノートを青年の前へ戻した。
「持って帰りますか?」
青年は少し迷った。
「いいんですか?」
「所有者があなたの父親なら」
「でも、それも確認できないですよね」
「そうだね」
青年はノートを見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「それでも、持って帰りたいです」
「分かりました」
手続きを済ませ、ノートは青年に渡された。
青年は帰る前に、木箱をもう一度見た。
「この箱は?」
「こちらで保管します」
「ノートだけでいいです」
青年はそう言った。
帰り際、入口で立ち止まる。
「一つだけ、分かった気がします」
「何が?」
「父は、話さなかったんじゃなくて……話さないことも、自分で選んでいたのかもしれません」
海は答えなかった。
青年は外へ出ていった。
その日の夕方。
湊が木箱を棚へ戻した。
「ノートがなくなると、箱だけが残りますね」
「うん」
「中身がなくなったから、箱の意味もなくなったんでしょうか」
海は木箱を見た。
「分からない」
「またですね」
「そうだね」
湊は笑って、箱を棚の奥へ押し込んだ。
翌朝。
掲示板に、新しい紙が一枚貼られていた。
――聞かなかったことは、知らなかったこととは違う。
その下には、誰かが一行だけ書き足していた。
――知らないままでいることを、選んだ人もいる。
誰が書いたのかは、分からなかった。




