第306章 確かめる人
古い記録を整理してから三日後、倉庫の保管庫で小さな問題が起きた。
「この名前、誰か分かりますか?」
記録担当の女性が、海に一枚の紙を見せた。
そこには、十年以上前の日付と、一人の名前が書かれていた。
「分からない」
「住所もありません」
「何の記録?」
「食料の受け取りです」
名前の横には、受け取った数量だけが記されている。
「この人が誰なのか、確認できないんです」
「確認する必要がある?」
「古い記録なので、今の仕事には関係ありません。ただ、名前が残っているので……」
女性は少し迷った。
「間違った記録だったら、どうします?」
「分からない」
「またですね」
「そうだね」
女性は紙を机に置いた。
「じゃあ、残します」
「うん」
その日の午後、別の職員がその紙を見つけた。
「この人、知っています」
海たちは顔を上げた。
「本当ですか?」
「昔、この辺りに住んでいた人です」
「今も?」
「分かりません」
「名前は合っていますか?」
「たぶん」
職員は古い記憶を頼りに話した。
当時、その人物は一人で暮らしていた。
配給の日には必ず早く来ていた。
ある日を境に、来なくなった。
それだけだった。
「亡くなったんですか?」
若い職員が尋ねた。
「知らない」
「引っ越した?」
「それも知らない」
「じゃあ、何も分からないんですね」
「そうだね」
その職員は紙を見た。
「でも、名前は覚えています」
記録担当の女性が聞いた。
「なぜですか?」
「何度も呼んだから」
それだけだった。
その日の夕方、海は保管庫へ行った。
古い記録を確認するためだった。
同じ名前が別の紙にもあった。
食料。
衣類。
医薬品。
しかし、どれも住所は違っていた。
「同じ人でしょうか?」
湊が聞いた。
「分からない」
「でも、名前は同じです」
「名前が同じだから同じ人とは限らない」
「じゃあ、別人?」
「それも分からない」
湊は紙を並べた。
「この人たちを、全部同じ人としてまとめたら?」
「できるかもしれない」
「別人として分けたら?」
「それもできる」
「どっちにします?」
海はしばらく考えた。
「今は分けておこう」
「理由は?」
「同じ人だと確認できていないから」
湊は頷いた。
ところが、その夜。
昔の職員が一人、倉庫へ戻ってきた。
七十代くらいの男性だった。
「古い記録を整理していると聞いてね」
「はい」
海は名前の書かれた紙を見せた。
男性はしばらく眺めた。
「ああ、この人か」
「知っていますか?」
「知っているというほどではない」
「では?」
「昔、何度か会った」
「この人は、その後どうなりましたか?」
男性は首を横に振った。
「知らない」
「引っ越したかどうかも?」
「知らない」
そこで男性は少し考えた。
「ただ、一度だけ聞いたことがある」
「何を?」
「もうここには戻らない、と」
海は黙って聞いた。
「本人が言ったんですか?」
「そうだ」
「どこへ行くとは?」
「言わなかった」
「理由は?」
「聞かなかった」
男性は紙を机に戻した。
「昔は、何でも聞けばいいと思っていたわけじゃないからね」
湊が尋ねた。
「今なら聞きますか?」
男性は笑った。
「今でも聞かないと思う」
「どうして?」
「本人が言いたくないことまで、知る必要はないから」
男性は帰っていった。
その後、海は記録の横に小さく注記を加えた。
――複数の記録に同名の人物が存在する。本人同一性は確認できない。
その下には、もう一行。
――過去の職員によれば、本人は「もうここには戻らない」と話していた。
それ以上は書かなかった。
翌朝、湊がその記録を見つけた。
「これ、結局何が分かったんでしょうね」
「少しだけ」
「名前と、昔ここにいたかもしれないこと?」
「それくらい」
「どこへ行ったかは?」
「分からない」
「生きているかも?」
「分からない」
湊は紙を見つめた。
「でも、少なくとも『いなくなった』とは書いてないですね」
「うん」
「それは大きいですか?」
海は少し考えた。
「分からない」
湊は笑った。
「それも、分からないんですね」
「そうだね」
昼過ぎ。
掲示板に、新しい文章が貼られていた。
――確かめることができないなら、想像で埋めない。
その下には、誰かが小さく書き足していた。
――でも、確かめられないことを忘れる必要もない。
海はそれを見て、しばらく立っていた。
そして、保管庫へ戻った。
古い記録は、今日もそのまま残されていた。
そこに書かれていること以上のことを、誰も知らない。
だからこそ、その記録はまだ、誰かの想像によって完成されてはいなかった。




