第305章 訂正できない記録
「本人による訂正」という欄ができてから、数日が過ぎた。
その欄を使う人は、まだ少なかった。
ほとんどの人は、記録を見ても、間違いがあれば担当者に伝えるだけだった。
ある日の午後、一人の女性が受付へ来た。
「昔の記録を見せてもらえますか?」
受付係が尋ねた。
「どの記録でしょうか?」
「私の仕事の記録です」
「期間は分かりますか?」
「三年くらい前です」
職員が保管庫を調べた。
しばらくして、古い記録が出てきた。
女性はページをめくった。
「これ……違います」
「何がですか?」
「この日は休んでません」
記録には、欠勤と書かれていた。
「別の日です」
「確認できますか?」
「たぶん」
女性は少し考えた。
「でも、もう三年前なので、証明できません」
職員は記録を見た。
「訂正しますか?」
「できますか?」
「確認できれば」
「確認できなかったら?」
「その場合は、訂正理由を書いて保管する方法があります」
女性は黙った。
「それならお願いします」
職員が必要な手続きを確認した。
古い勤務表。
当時の作業記録。
給与の記録。
いくつかを照合した。
しかし、決定的なものは見つからなかった。
「やっぱり確認できません」
職員が言った。
女性は少し残念そうにした。
「そうですか」
「本人からの申告として残すことはできます」
「それでいいです」
女性は紙に書いた。
――三年前のこの日は勤務したと本人は認識している。
ただし、現在確認できる資料では裏付けられない。
女性は署名した。
「これでいいです」
「はい」
そのとき、女性がふと尋ねた。
「この記録、誰かが見ますか?」
「必要があれば」
「知らない人にも?」
「原則として、必要な範囲で」
女性はしばらく考えた。
「じゃあ、理由を書き足してもいいですか?」
「どうぞ」
「当時、私は母の病院へ行くために休みを取りました。でも、上司には言えませんでした」
職員が手を止めた。
「それも記録しますか?」
「はい」
「個人的な事情ですが」
「今さら隠す必要もないので」
職員はその言葉をそのまま記録した。
女性は紙を見てから、首を振った。
「やっぱり、それは消してください」
「分かりました」
職員は理由の部分を取り消した。
「こちらには、勤務したという本人の申告だけ残します」
「ありがとうございます」
女性は帰っていった。
湊がその後ろ姿を見ながら言った。
「一度書いたものを、また消すんですね」
「本人が変えたから」
「でも、さっきは残してほしいと言ってましたよね」
「そうだね」
「何が正しいんでしょう」
海は少し考えた。
「本人が何を残したいかは、本人にも変わることがある」
「記録する側は?」
「そのたびに直すしかない」
夕方。
今度は佐々木がやって来た。
「海さん」
「どうした?」
「この前、訂正した記録なんですが」
「うん」
「一つ、戻してほしいです」
「どれ?」
「怪我の時期です」
「一昨年から去年に?」
「はい」
海は少し驚いた。
「この前、去年じゃないと言っていたよね」
「はい」
「どうして?」
佐々木は少し笑った。
「家で聞いたら、家族が『去年だ』って言うんです」
「どちらが正しいか分からない?」
「分かりません」
「じゃあ、どうする?」
「どちらとも書かないでください」
海は頷いた。
「確認できない情報として残す?」
「はい」
記録には新しい注記が加えられた。
――本人申告に変更あり。発生時期について確認不能。
佐々木はそれを見て言った。
「これならいいです」
「うん」
「自分でも、何が本当なのか分からないことってあるんですね」
「あると思う」
「前は、記録って本当のことを書くものだと思ってました」
「今は?」
「分からないことも書くものなのかなって」
海は答えなかった。
佐々木は受付を離れた。
夜。
掲示板には新しい紙が貼られていた。
誰かが書いた短い言葉だった。
――訂正できる記録は、まだ幸せなのかもしれない。
その下に、別の字が続いた。
――訂正する人がいなくなった記録は?
さらに、その下には何も書かれていなかった。
海は紙を見た。
しばらくして、掲示板の横にある保管箱を開けた。
古い記録が何冊も入っている。
そこには、もう誰も訂正できない名前も、日付も、出来事も残っていた。
海は一冊を取り出した。
ページを開く。
間違っているかもしれない。
正しいかもしれない。
もう確かめる人がいない。
それでも、ページは破られていなかった。
海は本を閉じた。
そして、元の場所へ戻した。




