第304章 言い直した人
佐々木が働き始めてから、一週間が過ぎた。
仕事は以前ほど速くなかった。
それでも、決められた範囲なら問題なくできた。
ただ、一つだけ困ったことがあった。
朝の作業分担である。
「佐々木さん、この箱を二階へお願いします」
担当者が言った。
佐々木は箱を見た。
「それは……」
「重いですか?」
「少し」
「前はできましたよね」
「はい」
佐々木は一度黙った。
「でも、今はできません」
担当者が止まった。
「分かりました。別の人に頼みます」
その場にいた湊が、佐々木を見た。
佐々木は何も言わなかった。
昼休みになってから、担当者が海のところへ来た。
「私、言い方が悪かったですかね」
「どうして?」
「『前はできましたよね』って言ってしまって」
「事実ではあると思います」
「でも、今の佐々木さんには関係ないですよね」
「関係がないわけではないと思う」
「え?」
「以前できたことが分かれば、別の仕事を任せられるかもしれない」
「なるほど」
「ただ、それを現在の能力と同じものとして扱うと、問題になる」
担当者は頷いた。
「記録って難しいですね」
「そうだね」
午後、佐々木が受付へ来た。
「昨日の記録なんですが」
「はい」
「一つ、訂正したいです」
「何でしょう?」
「怪我をしたのは去年じゃなくて、一昨年です」
職員が記録を確認した。
「では、修正します」
「お願いします」
「どうして今になって?」
佐々木は少し考えた。
「昨日、家に帰ってから思い出しました」
「大事な違いですか?」
「分かりません」
「では、修正しておきます」
職員が訂正した。
その後、佐々木は帰らずに受付の前に立っていた。
「もう一つあります」
「はい」
「最初に来たとき、前と同じ仕事ができると言いました」
職員は黙って聞いていた。
「本当は、できるか分かりませんでした」
「……はい」
「できると思いたかっただけです」
職員は記録用紙を見た。
「そのことも記録しますか?」
「しなくていいです」
「分かりました」
「でも、担当者には言ってください」
「どうしてですか?」
「また無理な仕事を頼まれたくないので」
職員は少し笑った。
「それは記録より大事ですね」
「そうかもしれません」
その日の夕方、担当者が佐々木に声をかけた。
「明日から、二階の作業は外します」
「ありがとうございます」
「代わりに、荷物の確認をお願いしたいです」
「できます」
「無理なら言ってください」
「分かりました」
佐々木はそこで少し迷った。
「……やってみて、無理だったら言います」
「それでいいです」
海は少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。
以前なら、「できる」「できない」の二つだけで作業を決めていた。
今は少し違う。
できたこと。
できないこと。
できるかもしれないこと。
やってみなければ分からないこと。
それぞれが分けられていた。
翌日。
佐々木は新しい作業を始めた。
最初は時間がかかった。
途中で一度、間違えた。
「すみません」
「大丈夫です。もう一度確認しましょう」
佐々木はやり直した。
昼前には、少し早くなった。
湊が隣で言った。
「意外とできますね」
佐々木は笑った。
「俺もそう思った」
「前の仕事より?」
「比べられないな」
「どうして?」
「前の仕事は、できたから」
湊は黙った。
「これは、今できる仕事だから」
その日の夕方。
掲示板にまた一枚の紙が貼られていた。
今度は短い文章だった。
――記録を直すことは、過去を否定することではない。
誰かがその下に書き足した。
――では、過去を残すことは、現在を縛ることでもない。
さらに少し離れた場所に、小さな字があった。
――言い直してもいい。
海はそれを見た。
しばらくして、佐々木が受付の前を通った。
海は声をかけなかった。
佐々木も掲示板を見なかった。
ただ、その日の作業記録には一つだけ新しい欄が増えていた。
「本人による訂正」
そこには、今日の日付が入っていた。




