第303章 現在を決める人
掲示板の紙は、その翌朝も残っていた。
――変更されたものを、すべて消す必要はない。
――残されたものが現在だとは限らない。
――では、現在とは誰が決めるのか。
朝の掃除をしていた女性が、その紙をしばらく眺めていた。
「これ、誰が書いたんでしょうね」
海は床を拭きながら答えた。
「分からない」
「聞かないんですか?」
「聞いても、答えたくないかもしれない」
女性は少し笑った。
「最近、みんなそうですね」
その日の午前中、臨時の作業員が一人来た。
受付で名前を告げる。
「佐々木です」
職員が名簿を確認した。
「佐々木さん……以前こちらで働いていましたか?」
「はい」
「以前と同じ仕事ですか?」
「違います」
「では、今回の担当は――」
職員が説明を始めると、佐々木は首を振った。
「すみません。その仕事はできません」
「以前はできたと記録されています」
「以前はできました」
「今は?」
「できません」
職員が記録を見た。
「何か事情がありますか?」
「あります」
「記録してもいいですか?」
「必要なら」
職員は少し迷った。
「作業配置のために必要です」
「それなら、書いてください」
「理由まで?」
「理由は書かなくていいです」
「分かりました」
佐々木は指定された場所へ向かった。
昼休みになると、湊が海に言った。
「さっきの人、以前はかなり仕事ができたみたいですね」
「そうなんだ」
「でも、今はできない」
「そういうこともある」
「病気とか怪我とか?」
「聞いてない」
「聞かないんですか?」
「仕事に必要なら、本人が話すと思う」
午後、佐々木は作業を途中で止めた。
顔色が悪かった。
海が近づく。
「大丈夫ですか?」
「少し休めば大丈夫です」
「休みますか?」
「はい」
佐々木は椅子に座った。
しばらくして、彼は自分から話した。
「昔、ここで働いていた頃は、何でもできました」
「はい」
「だから、記録を見ると、自分もまだできると思われるんです」
「今は違う?」
「違います」
佐々木は自分の手を見た。
「去年、怪我をしました」
海は黙って聞いた。
「治ったんですけど、前と同じようには動かせません」
「それなら、最初に言ってくれればよかったのに」
湊が言った。
佐々木は苦笑した。
「言うと、仕事をもらえないと思ったんです」
湊は何も言わなかった。
「だから、できると言いました」
「でも、今日はできなかった」
「はい」
佐々木は俯いた。
「嘘をついたことになりますよね」
海は答えなかった。
しばらくして、佐々木が続けた。
「仕事が欲しかったんです」
その日の終わり、配置担当者が記録を修正した。
以前の能力についての記録は残した。
現在できる作業については別に記録した。
怪我の詳細は記録しなかった。
佐々木が必要以上に知られたくないと言ったからだった。
湊がその記録を見ていた。
「昔はできた。今はできない」
「うん」
「どっちが本当なんでしょう」
「どちらも本当なんじゃないかな」
「でも、記録を見る人によっては、どっちか一つを選びますよね」
「そうかもしれない」
夕方、佐々木が帰る前に受付へ来た。
「明日も来てもいいですか?」
「担当者に確認します」
担当者は少し考えた。
「今日の作業ならできますか?」
「できます」
「無理なら言ってください」
「分かりました」
佐々木は頭を下げた。
「ありがとうございます」
帰り際、掲示板の前で足を止めた。
昨日の紙を読んでいる。
しばらくして、ポケットから小さな紙を取り出した。
そこに何かを書いた。
そして掲示板の端に貼った。
――現在は、過去の続きとは限らない。
翌朝、海がそれを見つけた。
昨日までの三つの文章の下に、四つ目の文章が増えていた。
海は紙を剥がさなかった。
そのままにしておいた。
その日から、佐々木の記録には二つの欄ができた。
以前できたこと。
現在できること。
どちらも消されなかった。
ただ、それぞれが別の時間の記録として残された。




