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嘘の向こう側  作者: 亀


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第301章 知らないままの記録

翌朝、倉庫の入口に一枚の紙が貼られていた。


 昨日の整理作業についての通知だった。


 古い記録のうち、確認できない情報については、確認できないまま保管する。


 ただし、現在の生活に関わる情報については、必要に応じて再確認する。


 海は紙を読み終えると、そのまま中へ入った。


 湊は掲示板の前に残っていた。


「これ、昨日の帳簿のことですよね」


「たぶん」


「確認できない情報を残すって、結構怖くないですか?」


「怖いと思う」


「間違ってるかもしれないのに?」


「だから、確認できないって書くんじゃないかな」


 湊は紙を見た。


「でも、読む人がそこまで読んでくれるとは限らないですよ」


「そうだね」


「じゃあ、どうします?」


「分からない」


「またそれですか」


 湊は苦笑した。


 午前中、倉庫に一人の男が来た。


 四十代くらいだった。


 受付で荷物の受け取りを確認すると、男は名前を告げた。


「田辺です」


 受付係が名簿を探す。


「田辺さん……」


「はい」


「同じ名前の方が二人います」


「どちらですか?」


 男が尋ねた。


 受付係は二つの記録を見比べた。


 一人は以前この地区で働いていた人物。


 もう一人は数か月前に別の場所へ移った人物だった。


「住所を確認してもいいですか?」


「前の住所なら分かります」


 男は住所を答えた。


 記録の一つと一致した。


「では、こちらですね」


「たぶん」


「たぶん?」


「昔の住所なので」


 受付係が手を止めた。


「今の住所は?」


「言わなくても受け取れますか?」


 男は静かに尋ねた。


 受付係は少し考えた。


「荷物の受け取りに必要な情報だけであれば、大丈夫です」


「じゃあ、それでお願いします」


 男は荷物を受け取った。


 そのとき、別の職員が近づいてきた。


「田辺さんですよね?」


「はい」


「以前、ここで働いていましたか?」


 男の表情が少し変わった。


「……そういう人もいました」


「あなたでは?」


「それは、答えなくてもいいですか?」


 職員は戸惑った。


「はい。必要がなければ」


 男は礼を言って帰っていった。


 その後、職員が海のところへ来た。


「さっきの人、以前の田辺さんだったんでしょうか」


「分からない」


「でも、住所も名前も一致しています」


「だから可能性は高い」


「じゃあ、本人だったと記録していいですか?」


「本人がそう言っていないなら、まだ書かないほうがいいと思う」


 職員は少し困った顔をした。


「でも、記録としては不便ですよ」


「そうだね」


「本人に確認するべきですか?」


「必要なら」


「必要かどうかは?」


 海は答えなかった。


 職員も、それ以上は聞かなかった。


 午後。


 田辺という名前の男が、もう一度戻ってきた。


「さっきの荷物なんですが」


「はい」


「一つ、間違っていました」


 確認すると、別の荷物が混ざっていた。


「すみません」


「こちらで確認します」


 職員が荷物を取り替える。


 その間、男は受付の椅子に座っていた。


「昔のことを聞かれたんですね」


 突然、男が言った。


 職員は顔を上げた。


「はい」


「別に隠しているわけじゃありません」


「……はい」


「ただ、昔の名前や住所を聞かれると、今の自分まで昔に戻されたような気がするんです」


 職員は何も言わなかった。


「だから、必要なときだけにしてほしいんです」


「分かりました」


 男は荷物を受け取った。


「ありがとうございます」


 それだけ言って、帰っていった。


 夕方。


 海は昨日の帳簿を整理していた。


 湊が横から覗き込む。


「今日の田辺さん、記録します?」


「何を?」


「昔の田辺さんと同じ人かもしれないってこと」


「本人が言っていないなら、推測として残す必要はないと思う」


「じゃあ、何も残さない?」


「受け取りの記録は残す」


「名前は?」


「必要な範囲で」


 湊は少し考えた。


「昔の人と今の人が同じかどうかって、結局ずっと分からないままになることもありますよね」


「あると思う」


「それでも困らないんですか?」


「困ることもある」


「じゃあ、困ったときに確認する?」


「そう」


 湊は紙に何かを書いた。


「『必要になったら確認する』」


「それでいいと思う」


 少しして、湊が紙を見ながら言った。


「でも、必要にならなかったら?」


「そのままでいい」


 湊は頷いた。


 夜、倉庫の灯りが一つずつ消えていった。


 掲示板には、朝の通知がまだ残っている。


 確認できない情報は、確認できないまま保管する。


 それは、知らないことを正しいと認めるためではなかった。


 知らないことを、知っていることに変えないためだった。

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