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嘘の向こう側  作者: 亀


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第300章 残したいもの

その週の終わり、倉庫の整理が行われた。


 古い記録や使われなくなった帳簿をまとめ、必要なものだけを残す作業だった。


 海と湊は、棚の奥から何冊もの古い帳簿を運び出した。


「これ、全部残すんですか?」


 湊が尋ねた。


「全部は無理だと思う」


「じゃあ、何を残します?」


「それを決める」


 机の上に帳簿が並べられた。


 日付。


 名前。


 荷物。


 移動先。


 簡単な出来事。


 中には、何年も前の記録もあった。


 湊が一冊を開く。


「これ、面白いですよ」


「何が?」


「この人、同じ日に二つの場所にいます」


 海が覗き込んだ。


 確かに同じ名前が、午前の搬入記録と午後の配給記録に書かれている。


「同じ人かな」


「名前が同じなら、そうじゃないですか?」


「分からない」


「また……」


 湊は笑った。


「でも、住所も同じです」


「それなら可能性は高いね」


「じゃあ、同じ人?」


「それも分からない」


 湊は帳簿を閉じた。


「こういう記録、残して意味あるんですか?」


 海は少し考えた。


「あると思う」


「間違っているかもしれないのに?」


「間違っているから、意味がないとは限らない」


「どういうことですか?」


「後から別の記録と比べられるから」


 湊はもう一度帳簿を開いた。


 しばらくページをめくる。


「じゃあ、間違いも残したほうがいい?」


「消したら、間違っていたこと自体が分からなくなる」


 その言葉を聞いた湊は、少し黙った。


「でも、間違った記録を見た人が、それを本当だと思ったら?」


「それもある」


「じゃあ、どうするんですか?」


 海は帳簿の端に小さく書かれた文字を指した。


「確認済みかどうかを分ける」


「なるほど」


「事実と判断を同じ場所に書かない」


 湊は新しい紙を持ってきた。


「じゃあ、これからはそうします?」


「できるところから」


 昼過ぎ。


 学校の教師が倉庫へ来た。


「海さん、少しいいですか?」


「はい」


「以前の生徒について、記録を整理しています」


「何かありましたか?」


「名前を変えた子が何人かいます」


「今の名前と昔の名前、両方を書きますか?」


 海はすぐには答えなかった。


「本人はどう言っていますか?」


「昔の名前は記録として必要だと言われた場合だけ使ってほしいそうです」


「なら、それに合わせたほうがいいと思います」


「でも、先生の側では以前の記録とつながらなくなります」


「つなげる必要がある場合は?」


「本人に確認します」


 教師は頷いた。


「それでいいんでしょうか」


「分かりません」


 教師は笑った。


「海さんらしいですね」


 そのあと、二人で古い名簿を確認した。


 同じ子供でも、途中で名前が変わっている。


 引っ越した子。


 家族と離れた子。


 自分で別の名前を選んだ子。


 名前だけでは、どんな事情があったのか分からない。


「記録を残すことも、誰かを守ることも、両方できればいいんですけどね」


 教師が言った。


「難しいですね」


「はい」


「でも、どちらかを全部捨てる必要もないと思います」


 海はそう答えた。


 夕方。


 整理作業が終わる頃には、残す帳簿と保管する帳簿が分けられていた。


 廃棄するものもあった。


 ただし、誰かの名前が書かれているからという理由だけでは捨てなかった。


 同じように、古い名前があるからという理由だけで公開もしなかった。


 残す。


 隠す。


 確認する。


 捨てる。


 それぞれに理由が必要だった。


 帰る前、湊が一冊の薄い帳簿を持ってきた。


「これだけ、どうします?」


 表紙には何も書かれていない。


「中身は?」


「三ページだけです」


 開くと、短い記録が並んでいた。


 名前も住所もない。


 ただ、日付と一行だけ。


 ――一人、来た。


 ――一人、帰った。


 ――名前を聞かなかった。


 ――聞かないほうがいいと言われた。


 湊が首を傾げた。


「これ、何の記録ですか?」


「分からない」


「じゃあ、捨てます?」


 海は帳簿を閉じた。


「残そう」


「どうして?」


「分からないから」


「それ、理由になるんですか?」


「なると思う」


 湊は少し考えてから頷いた。


「じゃあ、残しておきます」


 帳簿は棚の奥に戻された。


 誰が来たのか。


 誰が帰ったのか。


 なぜ名前を聞かなかったのか。


 もう、それを知る人はいないかもしれない。


 それでも、その三ページは残った。


 分からないものを、分からないまま残す。


 それもまた、記録の一つの形だった。

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