第三十章 開かなかった扉
翌朝。
透は、引き出しを開けた。
昨夜しまった鍵を取り出す。
N―07。
机の上に置き、しばらく眺めた。
鍵が何を開けるのか。
それを知るために、鍵穴を探す。
その考え自体は単純だった。
だが、透はすぐには動かなかった。
もし見つけたとしても、
開けていいとは限らない。
昨日、白石が言っていた。
――鍵を持っていることと、そこへ行っていいことは別だ。
透はその言葉を思い出した。
以前なら、そう言われれば従っていた。
今は違う。
従うかどうかも、自分で決める。
だからこそ、まず調べることにした。
午前中、透は古い建物の周辺を歩いた。
昨日の管理室。
裏側の廊下。
使われていない扉。
写真に写っていた場所。
一つずつ確認する。
しかし、鍵穴は見つからなかった。
管理室にもない。
廊下にもない。
建物の外にもない。
透は最後に、古い掲示板の前に戻った。
その時、掲示板の下に小さな金属板があることに気づいた。
ほとんど壁と同じ色だった。
手で触れる。
動いた。
小さな扉だった。
鍵穴がある。
透はポケットからN―07を取り出した。
差し込む。
入った。
しかし、回らない。
透は力を入れなかった。
一度抜く。
もう一度差し込む。
やはり回らない。
鍵が違う。
あるいは、壊れている。
透は扉を見つめた。
「……開かない」
その言葉を口にした瞬間、背後から声がした。
「開けない方がいい」
振り返る。
昨日の男だった。
「ここにいたんですか?」
「たまたまだ」
「この扉を知っていますか?」
男は頷いた。
「知っている」
「何が入っていますか?」
「昔は記録が入っていた」
「今は?」
「分からない」
透は鍵を見せた。
「これでは開きません」
男は鍵を見た。
「それでいい」
「どうして?」
「その鍵は、ここを開けるためのものじゃない」
透は黙った。
「では、何の鍵ですか?」
男は答えなかった。
代わりに、金属板を指差した。
「この扉は、昔から一つしかない」
「鍵は?」
「鍵も一つだ」
「でも、これは開かない」
「そうだな」
男は少し笑った。
「だから、面白い」
透には意味が分からなかった。
「鍵があるのに開かない」
「そう」
「どうして面白いんですか?」
「昔は、開けられないこと自体が記録だったからだ」
透は眉を寄せた。
「どういう意味ですか?」
男は答えなかった。
その代わり、古い掲示板を指差した。
そこには紙が一枚だけ残っていた。
文字はほとんど消えている。
だが、一行だけ読めた。
開錠確認を必要としない。
透はその文章を見つめた。
「また、確認不要……」
男は頷いた。
「この仕組みでは、確認しないことが一つの処理になる」
「確認しないことが?」
「そうだ」
「誰が決めるんですか?」
「場合による」
「では、誰も決めていない場合も?」
「ある」
透は黙った。
その時、端末が震えた。
女からだった。
『弟の古い会社について、もう一つ分かった』
透は返信する。
『何ですか?』
すぐに返事が来た。
『弟が辞める直前、会社から一度だけ「確認不要」という処理を受けている』
透の指が止まった。
『何の確認ですか?』
しばらくして、
『所在確認』
と返ってきた。
透は画面を見つめた。
人がどこにいるか。
それを確認しない。
記録上では、それだけの処理なのかもしれない。
しかし、その人間にとっては、
自分がどこにいるのかを、
誰も確認しなくなるということだった。
透は男を見る。
「この仕組みで、所在確認をされなくなった人は、その後どうなりますか?」
男は静かに答えた。
「それぞれだ」
「南区へ行った人も?」
「いる」
「戻ってきた人も?」
「いる」
「戻ってこなかった人も?」
男は少し間を置いて、
「いる」
と答えた。
「では、記録から消えたことと、南区へ行ったことは、同じじゃない?」
「同じじゃない」
「でも、同じ番号が使われる?」
「使われる」
透は目を閉じた。
一つの番号。
一つの処理。
複数の人間。
それぞれ違う事情。
そこから、後の人間が一つの物語を作る。
男は言った。
「記録を見る時に、一番危ないのは、記録に書いてあることだけを事実だと思うことだ」
「では、何を見ればいいんですか?」
「書かれていないこと」
透は少し笑った。
「それも、分からないですよね」
「そうだ」
男も笑った。
「だから難しい」
男は先に歩き出した。
透は金属板の前に残った。
開かない扉。
開けられない鍵。
確認されない人。
記録されない場所。
どれも、それだけでは説明にならない。
透は鍵をポケットに戻した。
扉を開けることを、今日は諦めた。
その代わり、女に一つだけ送った。
『弟さんの所在確認が「不要」になった日を調べられますか?』
しばらくして返信が来た。
『調べてみる』
透は端末をしまった。
そして建物を離れた。
駅へ向かう途中、
ふと後ろを振り返る。
古い建物は、何も変わっていない。
そこにある。
誰かが使っている。
誰かが使っていない。
それだけだった。
透は歩き続けた。
扉が開かなかったことより、
開けなくても分かることが増えてきたことの方が、
今は気になっていた。




