第三章 扉の向こう
翌朝、透はいつもより早く目を覚ました。
時計を見る。
午前五時四十八分。
起床時間まで、まだ一時間近くある。
眠れなかった。
昨夜聞いた音が、頭から離れない。
金属製の扉が開く音。
そして、あの館内放送。
――南区への立ち入りは、引き続き禁止されています。
「……引き続き?」
透は小さく呟いた。
その言葉が、妙に引っかかった。
まるで、誰かが今も南区へ出入りしていることを前提にしているようだった。
ベッドから起き上がる。
窓の外を見る。
居住区の照明が、まだ夜明け前の街を照らしている。
遠くには、巨大な防護壁が見える。
その向こう側には、人間が生きられない世界がある。
そう教えられてきた。
透は着替えた。
朝食を取るには少し早い。
仕事に行くにも早い。
だから、いつもなら部屋で時間を潰す。
しかし今日は違った。
透は廊下へ出た。
南区へ向かう通路の前で立ち止まる。
入口には赤い表示が出ていた。
――立入禁止。
その横に、小さな監視カメラがある。
透はカメラを見上げた。
「……帰ろう」
そう呟いた。
一歩下がる。
そのときだった。
通路の奥から、何かが落ちる音がした。
カラン。
透は反射的に振り返った。
誰もいない。
しばらく待つ。
何も起こらない。
帰ろうとした。
しかし、もう一度音がした。
今度は、少し近い。
透は息を呑んだ。
怖い。
見に行きたくない。
それでも、足が止まったままだった。
数秒後。
透はゆっくりと通路の奥へ進んだ。
南区へ続く扉の手前に、小さな金属片が落ちていた。
拾い上げる。
薄いカードだった。
表面には、古い文字が刻まれている。
――外部作業員用。
「外部……?」
透は眉をひそめた。
この居住区に「外部作業員」が存在するという話を聞いたことはない。
少なくとも、現在は。
そのとき、背後から声がした。
「何をしている?」
透の肩が跳ねた。
振り返る。
そこに立っていたのは、恒一だった。
「こ、恒一さん……」
「こんなところで何をしている?」
恒一は怒鳴らなかった。
ただ、透の手にあるカードを見つめていた。
その表情から、いつもの穏やかさが消えていた。
「これが落ちていて……」
「渡してくれ」
透は反射的にカードを差し出した。
恒一は受け取る。
そして、カードを裏返した。
「これは古いものだ」
「やっぱり、昔のものなんですか?」
「ああ」
「南区に、昔は外から人が来ていたんですか?」
「透」
恒一が静かに言った。
「もう、この話はやめよう」
「……どうしてですか?」
「君には関係ない」
その言葉を聞いた瞬間、透は何も言えなくなった。
いつもの言葉だった。
危険だから。
知らなくていいから。
君には関係ないから。
今までなら、それで納得できた。
でも今日は、違った。
「恒一さん」
「何だ?」
「昨日、南区に物資が送られていました」
恒一の表情が変わった。
「……」
「その記録は、あとから消えました」
「透」
「それに、昨夜も南区の扉が開く音を聞きました」
透自身も驚いていた。
こんなに続けて話したのは、初めてだった。
「だから……」
喉が乾く。
「南区で、何が起きているんですか?」
恒一は答えなかった。
しばらく透を見ていた。
やがて、カードをポケットにしまう。
「何も起きていない」
「……本当に?」
「ああ」
恒一はそう答えた。
その声は、いつもと変わらなかった。
だからこそ、透は初めて思った。
――この人は、本当に何も知らないのだろうか。
その疑問は小さかった。
けれど、一度生まれた疑問は、以前のようには消えてくれなかった。




