第297章 聞かないことにした話
翌日の朝、学校には少女の姿がなかった。
教師は特に何も言わなかった。
昨日のことがあったから、今日は無理に来させないことにした。
教室では、いつも通り授業が始まった。
何人かの子供たちは少女の席を見ていた。
けれど、誰もそのことを話題にはしなかった。
昼休みになって、一人の少年が教師のところへ来た。
「先生」
「どうしました?」
「あの子、もう学校に来ないの?」
「分かりません」
「昨日、家に帰ったんでしょ?」
「そうです」
「じゃあ、大丈夫?」
教師は少し考えた。
「大丈夫かどうかは、まだ分かりません」
「でも、怪我はしてなかったよ」
「そうですね」
「だったら大丈夫じゃないの?」
教師は答えなかった。
怪我がないことと、何も問題がないことは同じではない。
けれど、それを子供に説明する言葉を、教師はまだ持っていなかった。
「そのうち、本人が話してくれるかもしれません」
「話してくれなかったら?」
「そのときは、そのとき考えます」
少年は少し不満そうだった。
「先生って、何でも分かると思ってました」
教師は笑った。
「私も、そう思っていた時期があります」
午後。
海が倉庫へ戻ると、入口に見慣れない男性が立っていた。
「ここで働いている人ですか?」
「はい」
「昨日の薬の件を聞きました」
海は男性を見る。
「どちらさまですか?」
「診療所に薬を納めている者です」
「何か問題が?」
「薬の管理について確認したいんです」
男性は倉庫の中を見た。
「最近、持ち出しが多いようですね」
「必要な分が使われています」
「それでも、記録が曖昧だと困ります」
「それは昨日から改善しています」
「昨日から?」
「はい」
男性は少し安心したように頷いた。
「それならいいんですが」
そのとき、湊が奥から出てきた。
「昨日の一箱のことなら、診療所にありました」
「そうですか」
「だから、なくなったわけではありません」
男性は黙った。
「それなら、問題ありませんね」
そう言って帰ろうとした。
海は呼び止めた。
「一つ聞いていいですか?」
「何でしょう?」
「もし、記録がないまま薬が必要な人に渡された場合は、どうしますか?」
「記録を残してもらいます」
「誰が渡したか分からなかったら?」
「困りますね」
「その場合、その人を探しますか?」
男性は少し考えた。
「場合によると思います」
「何で決めますか?」
「薬の種類や量、持ち出された理由……」
「本人が知られたくない場合は?」
男性は答えに詰まった。
「そこまでは、私には分かりません」
「そうですか」
海は頷いた。
男性が帰ったあと、湊が言った。
「海さん、どうしてそんなこと聞いたんですか?」
「昨日のことがあったから」
「薬を盗んだ人を探したいんですか?」
「もう分かってるよ」
「じゃあ?」
「次に同じことが起きたとき、どうするか考えてる」
湊は少し考えた。
「じゃあ、昨日の子のことは?」
「どうするって?」
「学校に言うんですか?」
「本人が嫌がっていたこと?」
「はい」
「もう先生は知ってる」
「兄にも?」
「本人が話した」
「じゃあ、もう全部解決ですね」
海は首を横に振った。
「そうとは限らない」
「まだ何かあるんですか?」
「分からない」
湊は少し笑った。
「またそれですか」
「分からないからね」
その日の夕方、海は学校へ寄った。
教師が一人、教室の掃除をしていた。
「どうしました?」
「昨日の子のことです」
「はい」
「今日、来ませんでしたね」
「来ませんでした」
「家には?」
「行っていません」
「行かないんですか?」
「本人が今日は休みたいと言ったそうなので」
海は少し安心した。
「それでいいんですか?」
教師は掃除の手を止めた。
「分かりません」
そして、少し笑った。
「でも、昨日までは、分からないことがあると、すぐに何かを決めようとしていました」
「今は?」
「今は、決めないことも一つの方法だと思っています」
海は教室を見た。
少女の机は空いている。
そこには何も置かれていない。
「子供が学校に来ない理由を、学校が知らなくてもいいんでしょうか?」
教師が聞いた。
「俺には分かりません」
「ですよね」
「でも、知る必要があるときは、本人に聞くしかないと思います」
「本人が話したくなかったら?」
「そのときは待つ」
教師は頷いた。
「待っている間に何か起きたら?」
海は少し黙った。
「そのときは、待つのをやめる」
教師はその答えを聞いて、静かに笑った。
「それなら、少し分かりやすいですね」
帰り道。
海は一人で歩いていた。
誰かが話さなかった理由には、理由がある。
それを知ったからといって、その理由を他人に伝えていいとは限らない。
けれど、理由を知らないままでは、間違った判断をすることもある。
どちらを選んでも、完全には安全ではない。
だからこそ、昨日までなかった境界を、少しずつ作っていく。
海はそんなことを考えながら歩いていた。
すると、後ろから小さな声がした。
「海さん」
振り返ると、少女が立っていた。
一人だった。
「どうしたの?」
少女はしばらく黙っていた。
「昨日のこと、誰にも言わないでくれて、ありがとう」
「誰に?」
「私が言いたくなかったこと」
海は頷いた。
「分かった」
「でも、一つだけ話したいことがあります」
少女はそう言った。
海は急かさなかった。
少女はしばらく迷ってから、口を開いた。
「昨日、学校に行きたくなかった本当の理由は……」
そこで言葉を止めた。
「やっぱり、今日は言わない」
海は笑った。
「分かった」
少女は少し驚いた顔をした。
「聞かないの?」
「聞いてほしいときに聞くよ」
少女は小さく頷いた。
「じゃあ、また今度」
「うん。また今度」
少女は走っていった。
海はその背中を見送った。
話さないことと、話したくないことは、同じではない。
そして、話したくないことと、いつまでも話さないことも、同じではなかった。
その違いを、海はまだうまく言葉にできなかった。




