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嘘の向こう側  作者: 亀


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第296章 言わない理由

翌朝、掲示板の前に人が集まっていた。


 昨日の紙に書き足された一文について、何人かが話している。


「本人に聞けないなら、周りが判断するしかないだろ」


「でも、それで本人が嫌がったら?」


「じゃあ、何もしないのか?」


「そういう意味じゃない」


 声は少しずつ大きくなっていた。


 海は少し離れたところから聞いていた。


 湊も隣に立っている。


「どう思います?」


「何が?」


「どっちが正しいと思いますか?」


 海は掲示板を見た。


「分からない」


「またですか」


「うん」


 湊は苦笑した。


「海さんって、本当にそればっかりですね」


「分からないものを、分かったことにはできないから」


 そのとき、倉庫の奥から声がした。


「海さん!」


 振り返ると、昨日の兄妹の兄が立っていた。


 顔色が悪い。


「どうした?」


「妹がいません」


 周囲の空気が変わった。


「いつから?」


「朝、起きたらいませんでした」


「家の中には?」


「いません」


「探した?」


「近くは全部」


 少年は息を切らしていた。


「学校には?」


「行ってないと思います」


「思います?」


「妹、昨日から学校の話をすると嫌がっていたので……」


 海は周囲を見る。


「最後に見たのは?」


「昨日の夜です」


「何か言っていた?」


 少年は黙った。


「言っていた?」


「……何も」


「本当に?」


 少年はしばらく俯いていた。


「学校に戻るのが怖いって」


 湊が顔を上げた。


「どうして?」


「分からない」


「聞かなかったの?」


「聞きました」


 少年の声が小さくなる。


「でも、言わなかった」


 海は少し考えた。


「分かった。探そう」


 四人ほどが一緒に周辺を探すことになった。


 学校へ向かう道。


 診療所の裏。


 配給所。


 古い倉庫。


 誰も少女を見ていなかった。


 昼近くになって、学校の教師も合流した。


「昨日の件、すみませんでした」


 教師が兄に言った。


「私たちも探します」


 少年は何も答えなかった。


 海は教師に尋ねた。


「学校で何かあったんですか?」


「分かりません」


「本当に?」


「はい」


「誰かと揉めたとか?」


「そういう報告はありません」


「報告がないだけでは?」


 教師は黙った。


 しばらくして、ぽつりと言った。


「……一度だけ、教室で泣いていました」


 少年が振り返る。


「いつ?」


「三日前です」


「どうして教えてくれなかったんですか?」


 少年の声が震えた。


 教師は答えに困った。


「本人が話したくないと言ったからです」


「でも、妹ですよ」


「分かっています」


「だったら――」


 少年は言葉を止めた。


 教師も何も言わなかった。


 海は二人を見た。


 どちらも、相手に何かを隠していた。


 けれど、それぞれに理由があった。


「最後に泣いていたとき、誰が一緒にいましたか?」


 海が聞いた。


「一人です」


「本当に?」


「はい」


 教師は少し間を置いた。


「……ただ、別の子が近くにいました」


「その子は?」


「今、学校にいます」


 海たちは学校へ戻った。


 教室にいた少年に話を聞く。


「妹さんと話しましたか?」


「少し」


「何を話した?」


「家に帰りたくないって言ってた」


 兄の表情が変わった。


「家に?」


「うん」


「どうして?」


「聞いてない」


「本当に?」


「うん」


 その少年は少し迷ってから続けた。


「でも、昨日、先生に言わないでって言われた」


 教室が静かになった。


 兄は拳を握った。


「俺にも言わなかった」


 教師が何か言おうとした。


 しかし、海が先に尋ねた。


「その子が最後に行った場所は?」


「分からない」


「何か言ってなかった?」


「一つだけ」


「何?」


「古い水路のところに行くって」


 海は顔を上げた。


 学校から少し離れた場所に、使われなくなった水路がある。


 数年前に水が止まり、今は子供たちが時々遊びに行く場所だった。


 全員で向かった。


 水路の脇には、古い木箱が置かれていた。


 その陰から、小さな靴が見えた。


「いた」


 兄が走った。


 少女は木箱の後ろに座っていた。


 怪我はなかった。


 ただ、膝を抱えて俯いていた。


「どうしてこんなところに……」


 兄が近づく。


 少女は顔を上げた。


「帰りたくなかった」


「何が?」


「学校」


「どうして?」


 少女は黙った。


 教師も近づいてきた。


「話したくなければ、今は話さなくてもいい」


 少女は教師を見る。


「先生、怒らない?」


「怒らない」


「本当に?」


「うん」


 少女はしばらく黙っていた。


「私、昨日、薬を持っていこうとした」


 兄が驚いた。


「薬?」


「熱が出たから」


「だから診療所に?」


「うん」


「でも、どうして黙ってたの?」


 少女は兄を見た。


「お兄ちゃんが怒ると思った」


「怒らないよ」


「前に、薬をなくしたから」


 兄は何も言えなかった。


 少女は続けた。


「だから、言わないほうがいいと思った」


 海は黙っていた。


 昨日の薬箱のことも。


 学校で泣いていたことも。


 全部、誰かが悪意を持って隠したわけではなかった。


 少女は怒られるのが怖かった。


 兄は妹を守りたかった。


 教師は本人の意思を尊重したかった。


 当直の職員は、少女を疑わせたくなかった。


 それぞれが何かを言わなかった。


 その結果、誰も本当のことを知らないまま、一つの薬箱だけが「なくなった」という記録になっていた。


「帰ろう」


 兄が妹に言った。


 少女は頷いた。


 教師が二人を見る。


「学校のことは、明日でもいいです」


 少女は少し考えた。


「明日も行かなくていい?」


「明日決めなくてもいい」


 教師はそう答えた。


「話せるときに話してください」


 少女は小さく頷いた。


 帰り道、湊が海に言った。


「結局、誰も嘘をついてなかったですね」


「うん」


「でも、みんな何かを隠してた」


「そうだね」


「それって、嘘とは違うんですか?」


 海は少し考えた。


「たぶん、同じところもあるし、違うところもある」


「難しいです」


「俺も分からないよ」


 湊は笑った。


 二人の前を、兄妹が歩いている。


 少女は兄の手を握っていた。


 兄は何も聞かなかった。


 少女も何も話さなかった。


 それでも、その日は二人とも、昨日より少しだけ近くを歩いていた。

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