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嘘の向こう側  作者: 亀


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第295章 聞かない約束

翌日の朝、兄妹は診療所に来なかった。


 海は特に気にしていなかった。


 薬を渡した。


 熱があることも分かった。


 必要なら、また来る。


 それ以上のことを、こちらから追いかける必要はない。


 そう考えていた。


 ところが昼過ぎ、倉庫の前で湊が海を呼んだ。


「海さん」


「どうした?」


「昨日の兄妹なんですけど」


「うん」


「さっき、学校の先生が探していました」


 海は振り返った。


「学校?」


「妹のほうです。昨日から来ていないらしいです」


「昨日?」


「はい」


 海は少し考えた。


 昨日、少女は診療所に来ていた。


 そのあと兄と一緒に帰った。


 学校へ行っていない理由は聞いていない。


「先生は何と言っていた?」


「名前を知りたいそうです」


「本人の名前?」


「はい」


 海は黙った。


「それで、教えたの?」


「まだです」


「どうして?」


「海さんが、本人の希望を確認せずに伝えないって言ってたので」


 海は湊を見た。


「俺が?」


「昨日、掲示板に書いたでしょう」


「そうだったね」


 湊は少し困ったように笑った。


「だから、聞く前に海さんに相談しようと思って」


 二人は診療所へ向かった。


 受付には、学校の教師らしい女性が一人座っていた。


「昨日の兄妹について、少し確認したいことがあります」


「何かありましたか?」


「妹さんが学校に来ていません」


「体調が悪いようです」


「それは聞いています」


 女性は少し驚いた顔をした。


「名前は分かりますか?」


 海は答えなかった。


「診療所に来たことは確認できますか?」


「はい」


「では、名前も?」


「必要な情報として記録されている範囲なら確認できます」


 女性は少し考えた。


「その子の名前を教えてもらえますか?」


 受付の女性が海を見る。


 海も少し考えた。


「学校で確認したほうがいいと思います」


「どうしてですか?」


「本人が学校に戻るつもりなのか、まだ分からないので」


「でも、学校は待っています」


「それは分かります」


 教師は少し困った顔をした。


「私たちは、その子を責めたいわけではありません」


「それも分かります」


「では、なぜ教えてもらえないんですか?」


 海はすぐには答えなかった。


「知らないからです」


「知らない?」


「その子が何を望んでいるのか」


 教師は黙った。


「だったら、聞けばいいじゃないですか」


「本人に?」


「はい」


「本人が来ていません」


「では、家に行きます」


 その言葉に、湊が少し反応した。


 海も教師を見た。


「家を知っているんですか?」


「知りません」


「では、探すんですか?」


「必要なら」


 海はそれ以上言わなかった。


 教師が帰ったあと、診療所の女性が口を開いた。


「学校も困っているんでしょうね」


「そうだと思います」


「でも、困っていることと、全部知っていいことは別ですね」


「はい」


 午後になって、あの兄が一人で診療所に来た。


 入口で立ち止まり、海を見る。


「妹のことですか?」


「学校の先生が来ました」


 少年の顔が少し強張った。


「名前を言いましたか?」


「言っていません」


「……ありがとうございます」


「学校には戻りたい?」


 少年は答えなかった。


「妹は?」


「分かりません」


「聞いてみた?」


「聞きました」


「何て?」


「行きたくないって」


 少年は少し黙ってから続けた。


「でも、理由は言いませんでした」


 海は頷いた。


「じゃあ、今はそれでいいんじゃないかな」


「本当に?」


「うん」


「学校の先生は困ります」


「そうだね」


「僕たちも困ります」


「そうだね」


「それでも?」


 海は少年を見る。


「それでも、本人が言っていないことを、代わりに決めることはできない」


 少年はしばらく黙っていた。


「……約束してもらえますか?」


「何を?」


「妹が自分から話すまで、名前のことを誰にも言わないでください」


 海はすぐには答えなかった。


「ただし」


「はい」


「命や安全に関わることなら、別だよ」


 少年は考えた。


「それは、分かります」


「それでいい?」


「はい」


 少年は頭を下げた。


 帰ろうとしたところで、海が呼び止めた。


「一つだけ聞いていい?」


 少年が振り返る。


「妹が学校へ行きたくない理由は、君も知らない?」


「……知りません」


 その答えは少しだけ遅かった。


 海は気づいた。


 けれど、何も言わなかった。


「分かった」


 少年は診療所を出ていった。


 その日の夕方、海は掲示板の前に立っていた。


 昨日貼った紙の下に、新しい紙が追加されていた。


 本人の希望を確認すること。


 その下には、誰かが手書きで付け加えていた。


 ただし、確認できない場合はどうするのか。


 海はしばらくその文字を見つめた。


 答えは書かれていなかった。


 誰かが紙を貼った。


 誰かが問いを書いた。


 そして、誰もすぐには答えられなかった。


 夜になっても、その紙は残っていた。

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