第294章 聞かなかったこと
翌朝、診療所の前に人だかりができていた。
大きな騒ぎではなかった。
ただ、入口の横に置かれていた薬箱が一つ、なくなっていた。
「昨日の夜まではありました」
受付の女性が言った。
「今朝、来たらなくなっていました」
海は周囲を見回した。
昨日の薬の箱とは別のものだった。
「鍵は?」
「閉めていました」
「壊されてはいません」
湊が箱を置いていた棚を確認する。
「誰かが鍵を持っていたんですか?」
「職員の中では三人です」
「三人以外には?」
「ありません」
そこへ、昨夜の当直だった男性が来た。
「すみません」
「何か分かりましたか?」
「一つ、思い出したことがあります」
男性は少し言いにくそうにした。
「昨日の夜、女の子が来ました」
「患者ですか?」
「分かりません」
「どういう人ですか?」
「十歳くらいだったと思います」
「何をしに?」
「薬を探していました」
受付の女性の表情が変わった。
「薬を?」
「はい。でも、どこにあるのか分からないと言っていました」
「その子は?」
「帰りました」
「一人で?」
「たぶん」
湊が尋ねた。
「どうして、そのことを昨日言わなかったんですか?」
男性は黙った。
「言う必要がないと思ったんです」
「でも、薬がなくなっています」
「それは今朝分かったことです」
「じゃあ、昨日の時点では?」
「ただの子供でした」
海はその言葉を聞いて、少し考えた。
「何を探していたのか、聞きましたか?」
「聞いてません」
「どうして?」
「話したくなさそうだったからです」
受付の女性が薬箱の一覧を見る。
「なくなったのは、子供用の解熱剤です」
全員が黙った。
「もしかしたら、その子が……」
湊が言いかけた。
海は止めなかった。
「可能性はあります」
だが、誰も確かめることはできなかった。
昼頃、診療所に一人の少年が来た。
昨日の夜に来たという少女の弟だった。
「昨日、妹がここに来ました」
「あなたも一緒だったんですか?」
「いいえ」
「どうして?」
「妹だけ行かせました」
少年は下を向いた。
「弟さんは?」
「僕です」
「妹さんは今どこに?」
「家にいます」
「薬が必要なんですか?」
少年は頷いた。
「熱があります」
受付の女性が薬を用意する。
「どうして、昨日一緒に来なかったんですか?」
少年は答えなかった。
「言いたくなければ、言わなくてもいいです」
そう言われると、少年は少し顔を上げた。
「妹を一人にしたくなかったんです」
「でも、一人で来させた」
「僕がここに来たら、戻れなくなるかもしれないから」
誰もすぐには理解できなかった。
「どういう意味ですか?」
少年は黙った。
そのとき、診療所の外から小さな声がした。
「お兄ちゃん」
少女が立っていた。
「来ちゃったの?」
「うん」
「帰ろう」
少女は兄の服を掴んだ。
受付の女性が二人を見る。
「薬は渡します」
少年は驚いた顔をした。
「名前を聞かないんですか?」
「必要なことは確認します」
「住所も?」
「今は聞きません」
少年は少し黙った。
「……ありがとうございます」
二人は薬を受け取って帰っていった。
海は二人の後ろ姿を見ていた。
しばらくして、湊が言った。
「昨日の薬箱も、あの子たちだったんでしょうか」
「分からない」
「でも、薬が必要だった」
「それも分からない」
「じゃあ、何も分からないじゃないですか」
「そうだね」
海は診療所の棚を見た。
薬箱が一つなくなった。
その理由は分からない。
必要だったのかもしれない。
誰かが持っていっただけかもしれない。
別の場所へ運ばれたのかもしれない。
それぞれの可能性は、どれもまだ消えていなかった。
夕方、昨日の当直の男性が海のところへ来た。
「昨日、女の子のことを言わなかったのは、間違いだったかもしれません」
「そうかもしれません」
「でも、言ったら、あの子が疑われていたと思います」
海は答えなかった。
「言わないほうが守れることもあるんですね」
「あります」
「でも、言わなかったことで、疑われることもある」
「あります」
男性は苦笑した。
「難しいですね」
「うん」
夜になった。
診療所の棚には、新しい薬箱が並べられた。
その横には、小さな紙が貼られていた。
持ち出す場合は、後からでも記録してください。
誰かが薬を持っていくことを完全に防ぐためではない。
誰かを疑うためでもない。
ただ、何が起きたのか分からなくなったときに、もう一度確認できるようにするためだった。
そしてその夜、海は一つだけ気になっていた。
あの兄妹は、なぜここまで名前を隠そうとするのか。
聞けば、理由は分かるかもしれない。
けれど、理由を知ることが、その二人にとって本当に必要なのかは分からなかった。




