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嘘の向こう側  作者: 亀


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第293章 言わないほうがいいこと

数日後、倉庫で小さな騒ぎが起きた。


 昼の配給が終わったあと、一人の女性が慌てた様子で走ってきた。


「すみません。昨日の荷物について、確認したいことがあります」


 海が顔を上げた。


「どの荷物ですか?」


「薬の箱です」


「何かありましたか?」


「一箱、数が合わないんです」


 海は立ち上がった。


 倉庫の奥へ行くと、女性が棚を指差した。


「昨日は十二箱ありました。でも、今は十一箱しかありません」


「昨日の記録は?」


「十二箱です」


 湊も近づいてきた。


「誰かが持っていったんでしょうか」


 女性は答えなかった。


 海は棚の周りを見た。


 箱の位置が少しずれている。


「最後に確認したのは?」


「昨日の夕方です」


「その後、誰か入った?」


「何人かいます」


「名前は分かりますか?」


「分かります」


 女性は記録を取り出した。


 そこには四人の名前があった。


 その中に、最近倉庫で働き始めた青年の名前もあった。


「この人……」


 湊が言った。


「どうした?」


「昨日、薬の棚の近くにいました」


 女性の表情が変わった。


「知ってるんですか?」


「見ただけです」


「何をしていた?」


「箱を運んでいました」


「薬の箱?」


「そこまでは見てません」


 海は湊を見た。


「それなら、まだ何も分からない」


「でも、近くにいたんですよ」


「近くにいたことと、持っていったことは別だよ」


 女性は少し不安そうに言った。


「でも、本人に聞いたほうが……」


「聞くのはいいと思います」


 海は頷いた。


「ただ、盗ったと決めてから聞くのは違う」


 しばらくして、その青年が呼ばれた。


「昨日、この棚の近くにいましたか?」


「いました」


「何をしていました?」


「箱を運んでいました」


「どの箱ですか?」


「覚えていません」


 女性が薬の箱を指した。


「これですか?」


 青年は首を振った。


「違います」


「では、どこへ運びました?」


「診療所です」


 全員が黙った。


「診療所?」


「昨日、急に頼まれました」


 海は確認のため、別の記録を取りに行った。


 診療所への搬出記録には、確かに一件の記録があった。


 ただし、薬の種類までは書かれていない。


「一箱、診療所へ運んだんですね」


「はい」


「どうして記録に薬の名前がないんですか?」


 担当者が困った顔をした。


「急ぎだったので、後で書くつもりでした」


 女性は棚を見た。


「じゃあ、なくなった一箱は……」


「診療所にあるかもしれません」


 海たちは診療所へ向かった。


 そこで確認すると、昨日搬入された箱が一つ置かれていた。


 中身を確認する。


 薬だった。


 数も一致した。


「ありました」


 女性は小さく息を吐いた。


 青年は何も言わなかった。


 湊が青年を見る。


「疑って、ごめん」


「いいです」


「怒ってない?」


「少しだけ」


 湊は苦笑した。


「そりゃそうだよな」


「でも、俺も昨日、何も言わなかったので」


「どうして?」


「急いでいるみたいだったから」


 海が尋ねた。


「言えばよかったと思う?」


 青年は少し考えた。


「分かりません」


「どうして?」


「言ったら、誰かに怒られると思ったんです」


 女性が黙った。


「薬を持っていったことではなくて、記録がないことを」


 青年は続けた。


「だから、黙ってました」


 誰もすぐには答えられなかった。


 その日の午後、倉庫では新しい確認方法について話し合いが行われた。


 急いで物を運ぶ場合でも、最低限の記録を残す。


 後で正式な記録を作る。


 誰が、どこへ、何を運んだのか。


 それだけを書く。


 ただ、それを決めたあとで、一人の職員が言った。


「でも、全部書くようにすると、今度は時間がかかります」


「そうですね」


「急いでいるときには困ります」


「では、どうしますか?」


 誰もすぐには答えなかった。


 海は机の上に置かれた新しい用紙を見た。


 空白の欄がいくつもある。


 何かを守るために記録を増やせば、別の場所で負担が増える。


 記録を減らせば、別の場所で疑いが生まれる。


 どちらにも問題がある。


 結局、その日は「緊急搬出」という欄を一つ追加することだけが決まった。


 帰り際、湊が言った。


「最初から全部書けば、こんなことにならなかったのに」


 海は歩きながら答えた。


「たぶんね」


「たぶん?」


「全部書けば、別のところで別の問題が起きるかもしれない」


「じゃあ、どうすればいいんですか?」


 海は少し考えた。


「そのとき必要なものを、少しずつ増やすしかないんじゃないかな」


 湊は納得したような、していないような顔をした。


 倉庫の明かりが一つずつ消えていく。


 その日、誰も嘘をついてはいなかった。


 それでも、情報が足りなかった。


 そして、足りない情報だけで人を疑うことはできた。


 そのことを、何人かが初めて意識した夜だった。

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