第292章 知っていることの重さ
その日の夕方、診療所に一人の青年が来た。
二十歳前後に見えた。
右手に布を巻いている。
「怪我ですか?」
受付の女性が尋ねると、青年は頷いた。
「仕事中に切りました」
「いつですか?」
「今日です」
「深いですか?」
「たぶん、大丈夫です」
青年はそう言ったが、布の端には血が滲んでいた。
女性が布を外すと、傷は思ったより深かった。
「これは縫ったほうがいいかもしれません」
「縫うんですか?」
「状態を見てからです」
青年は少し黙った。
「名前を書かないといけませんか?」
受付の女性は答える前に、隣にいた別の職員を見た。
「最低限の情報だけで大丈夫です」
「最低限?」
「治療に必要なことです」
「住所は?」
「今いる場所だけで構いません」
「仕事先は?」
「治療に必要なら確認します」
青年は少し安心したようだった。
「じゃあ、名前は……」
そこで口を止めた。
「言いたくなければ、無理に言わなくてもいいです」
青年はしばらく考えた。
「海」
「それが名前ですか?」
「今は、そう呼んでいます」
受付の女性は紙に「海」と書いた。
その文字を見た青年は、少しだけ目を逸らした。
「本当の名前じゃないんです」
「そうですか」
女性はそれ以上聞かなかった。
治療が終わるまで、誰も昔の名前を尋ねなかった。
青年は薬を受け取ると、立ち上がった。
「ありがとうございました」
「明日も傷を見せてください」
「分かりました」
青年が出ていったあと、若い職員が小さな声で言った。
「本当の名前じゃないなら、記録として問題ないんですか?」
「治療ができるなら、今はそれでいいんじゃないですか」
「でも、もし何かあったら?」
「そのとき必要な情報が足りなければ、その時に考える」
若い職員は納得していない顔をした。
「最初から全部知っておいたほうが安全じゃないですか?」
女性は少し考えてから答えた。
「全部知っていることが、安全とは限らないから」
その夜。
海という青年は、診療所から少し離れた空き家の前に座っていた。
右手には包帯。
左手には、古い紙が一枚あった。
そこには別の名前が書かれていた。
何年も前に使っていた名前だった。
その名前を見つめていると、後ろから声がした。
「それ、誰の名前?」
振り返ると、同じ仕事場の少年が立っていた。
「昔の知り合い」
「会うの?」
「分からない」
「探してるんじゃないの?」
「探してる」
「じゃあ、会えばいいじゃん」
海は答えなかった。
少年は隣に座った。
「俺だったら会うけどな」
「そうかもしれない」
「怖いの?」
「……少し」
少年は意外そうな顔をした。
「海さんでも怖いことあるんだ」
「あるよ」
海は笑った。
「知らないことより、知っていることのほうが怖いときもある」
「どういう意味?」
「知らなければ、何も決めなくていいから」
少年はしばらく黙っていた。
風が吹いた。
海の手の中の紙が揺れた。
「じゃあ、捨てれば?」
少年が言った。
海は紙を見た。
「それもできない」
「なんで?」
「この名前を捨てたら、昔の自分までいなくなる気がするから」
少年はそれ以上聞かなかった。
翌朝。
診療所に、昨日の青年が来た。
「傷はどうですか?」
「痛みます」
「見せてください」
包帯を外す。
傷口は少し腫れていた。
「今日は仕事を休んでください」
「休めません」
「悪化したら、もっと長く休むことになります」
青年は黙った。
「分かりました」
診療所を出る前に、青年が振り返った。
「昨日、名前のことを聞かなかったですよね」
「はい」
「どうしてですか?」
受付の女性は少し考えた。
「聞く必要がなかったからです」
青年は頷いた。
「ありがとうございます」
外へ出る。
その背中を見ながら、女性は思った。
知らないということは、いつも無関心というわけではない。
知ることが必要なときもある。
知らないほうがいいときもある。
そして、その境界を決めるのは、いつも簡単ではなかった。




