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嘘の向こう側  作者: 亀


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第291章 伝えないということ

翌日の朝、配給所の前には、いつもより長い列ができていた。


 夜のうちに雨が降ったらしく、道の一部には水が残っている。


 人々は濡れた靴を気にしながら、順番を待っていた。


 海は倉庫の入口で、昨日届いた荷物の確認をしていた。


「これ、昨日の分と同じ場所に置いていいですか?」


 湊が箱を一つ持ってきた。


「待って。昨日から置き場所が変わった」


「変わったんですか?」


「今朝、担当が決めたらしい」


「聞いてないです」


「俺もさっき知った」


 二人は顔を見合わせた。


 結局、箱には新しい紙が貼られた。


 以前なら、それだけで混乱が起きていた。


 誰が決めたのか。


 なぜ変えたのか。


 昨日の記録と違うのはどちらが正しいのか。


 最近は、そうしたことを一つずつ確認するようになっていた。


 海が紙を貼り終えると、入口のところにいた女性が声をかけた。


「海さん」


「はい」


「昨日の紙、まだ持っていますか?」


「どの紙ですか?」


「名前が書いてあったものです」


 海は少し考えた。


 昨日、誰かを探している男が置いていった紙のことだと思った。


「持っています」


「見せてもらえますか?」


「……どうしてですか?」


 女性は答えに迷った。


「知っている名前だったので」


「本人を知っているんですか?」


「名前を知っている人を知っています」


 海は黙った。


 昨日も、似たような話を聞いた。


 名前を知っている。


 その人を知っている人を知っている。


 昔、一緒に働いていた。


 家族だったかもしれない。


 同じ場所にいたことがある。


 どれも、本人を確認するには少し遠い。


「昨日の人は、その人に会いたがっていました」


「そうですか」


「でも、会いたいと思っていることと、会っていいことは違いますよね」


 女性は少し驚いたように海を見た。


「……そうですね」


「だから、紙はそのままにしています」


「渡さないんですか?」


「本人が受け取ってほしいと言っていないので」


 女性はしばらく考えていた。


「でも、その人を探しているなら、教えてあげたほうがいいんじゃないですか?」


「そうかもしれません」


 海は否定しなかった。


「ただ、逆かもしれません」


「逆?」


「昔のことを知られたくない人かもしれない」


 女性は黙った。


 それ以上は何も言わなかった。


 昼前になって、昨日の男が戻ってきた。


 手には小さな袋を持っていた。


「昨日の紙、ありますか?」


 海は頷いた。


「あります」


「まだ渡していないんですね」


「はい」


 男は少し安心したような顔をした。


「ありがとうございます」


「渡してほしいなら、渡します」


「……いえ」


 男は首を振った。


「まだ、いいです」


「昨日は探していると言っていましたよね」


「探しています」


「でも、会うつもりはない?」


「会いたいとは思っています」


 男は袋を握った。


「ただ、相手がどう思っているのか分からないので」


 海は何も言わなかった。


「昔は、名前を知っていれば、連絡できると思っていました」


 男は続けた。


「でも、今はそうじゃないんですね」


「名前だけでは分からないこともあります」


「そうですね」


 男は少し笑った。


「だから、今日は紙を返してください」


 海は紙を取り出した。


 男はそれを受け取った。


 折りたたんで、袋の中に入れる。


「もう探さないんですか?」


 海が聞くと、男は首を横に振った。


「探します」


「では、どうして?」


「探すことと、相手のところへ行くことは、同じじゃないので」


 海はその言葉を聞いて、少しだけ考えた。


 男はそれ以上何も言わず、配給所を出ていった。


 午後になって、湊が尋ねた。


「海さん」


「何?」


「あの人、結局どうするんですか?」


「分からない」


「探しているのに?」


「探しているからこそ、分からないんじゃないかな」


 湊は首を傾げた。


 海は倉庫の奥に積まれた箱を見た。


 そこには、名前の書かれていない荷物もあれば、名前だけが書かれていて中身の分からない荷物もある。


 名前があれば、誰かのものだと思える。


 けれど、それだけでは、その人が今もそこにいるとは限らない。


 誰かが名前を残した理由も。


 誰かが名前を消した理由も。


 書かれなかった理由も。


 それだけでは分からない。


「名前って、難しいですね」


 湊が言った。


「そうだね」


 海は笑った。


「でも、名前がなくても人はいるから」


「それも難しいです」


「うん」


 二人はそれ以上話さなかった。


 夕方、配給所の掲示板に一枚の新しい紙が貼られた。


 そこには、短くこう書かれていた。


 連絡先を知っている場合でも、本人の希望を確認せずに伝えないこと。


 その下には、小さな文字で付け加えられていた。


 ただし、生命や安全に関わる場合を除く。


 誰かが読んだ。


 誰かが通り過ぎた。


 誰かは、その紙を見て少し考えた。


 そして、そのまま歩いていった。


 新しい決まりが一つ増えた。


 それで問題がなくなるわけではない。


 けれど、昨日まで誰にも決められていなかった境界を、今日は少しだけ言葉にすることができた。

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